跳舞猫日録

Life goes on brah!

2023/12/29 BGM: Everything But The Girl - Downtown Train

今日は遅番だった。今朝、ぼくは所属しているLINEグループでたくさんのメッセージが友だちから届いているのを見かけた。突然、こんなアイデアを思い起こした……というのは、過去にぼくは2つのことがらの相違について考えたことがあったからだ(そしてそれをXに投稿した)。「反社会的」と「脱社会的」の違いだ。定義づけるとするなら、「権威に反抗すること」が「反社会的」であり「社会から逸脱すること」が「脱社会的」となるだろう。いや、種を明かすとこれは著名な(そして悪名も高い)社会学者・宮台真司のアイデアの受け売りなのだけど。

上に書いたように、「反社会的」とは何かに対する抵抗・反抗である。だからそもそもその「何か(権威・権力といったもの)」をネガティブにであれ信頼・評価していないと逆らいようがない。でも「脱社会的」というのはその外側にある権威・権力への信頼・評価をあきらめるというか、投げ出して自分だけの世界に孤絶するところから始まる。どんな社会・集団からも離れて自分だけの生を生きる……そんなカルト的な、あるいはサイコキラー的な生き方のことを意味する、とぼくはさしあたって定義づけている。

口が酸っぱくなるほど繰り返し書いてきたけど、昔ぼくは強い人間にあこがれてそう生きようとした。究極の「スーパーパーソン」になりたい、ニーチェのひそみに倣って「超人」「超越者」になりたい、と思って(というわりに、ぼくはオクテで『ツァラトゥストラはかく語りき』さえ40を超えてやっとかじったクチなのだけれど)。どんなつながり、どんなグループからも孤絶した生を生きようとしたっけ……つるむまい、つるんだらバカが伝染るとさえ思って(こう書いて「若かったなあ」と赤面してしまう)。言い換えれば、孤独に寝室の中でアホみたいな夢想に浸って、ドカンと革命を起こしたいとまで思っていたのだった。いま、ぼくはやっとつながりに感謝できるようになった。こんなぼくに微笑みかけてくださる方々に対して、ようやく……それが幸せに感じられる。

今日、ぼくはあたたかい、懇切丁寧なメッセージを友だちからいただいた。彼女はぼくの態度を「強い人」と褒めて下さった。だからぼくは英語を学び続けられて、真面目に生きられているのだ、というようなことを書いておられた。たしかにうれしかったのだけれど、でも……ぼくはたしかに強いのかもしれない(ぼくにはまったくわからない)。でも、他人の優しさ・思いやりによって磨かれたことがぼくを形成したのだとぼくは思っている。ダイヤの原石が他の石や他の職人の手によって磨かれて一個の宝石になるのと図式としては似ている。それが成長なのかなあ、と手前味噌なことを思う。