跳舞猫日録

Life goes on brah!

2023/12/21 BGM: Enya - Storms In Africa

身体が熱を帯びているというわけではなかったのだけれど(そう、たかだか36.5℃だった。平熱は低い方ではあるとしても)、咳に悩まされるのは閉口する。昨日もらった薬を飲んで耐え忍ぶ。この風邪と腰を据えて、持久戦として向き合う必要があるようだ。ぼくは風邪をそうそう引く人間ではない。日本では、この噂もしくは決まり文句の起源は知らないのだけれど時に「バカは風邪引かない」なんていわれたりする。なら、この病はぼくがバカではないことを証明しているに違いない。

いま、どうしてこんなことを考えたか思い出せない(たぶん今日、我ながらそれこそバカみたいにXやFacebookに入り浸ったりしたからかもしれない)。でも、こんなことを考えてしまった。本もネットフリックスの映像も頭に入らないので――日本ではX(かつてのTwitter)のユーザーは言う。「ナチスはいいことをした(かもしれない)」。もちろんこれは歴史修正主義というやつだ。ぼくはホロコーストを許さない。だけど同時にこの歴史修正主義を単純に否定し、切って捨てることもできない。

こんなことを考える。ぼくは内心のフリーゾーン(無法地帯)に「考える自由」「内心の自由」を持つべきだ。そこではどんな言論の自由も許容される。そして、世界にも「言論の自由」が保証されるべきだと信じる。これらの2種の自由は(それらは、あのジョージ・オーウェル1984』さながら他者の心をいかようにも侵害してはいけない)社会で保証されるべきだ。この考えに従うなら、ぼくはどんな極端かつ排他的なことも言えるということになるだろう。

でも、ぼくはこのこともわかっておかないといけない。この種の自由、つまり「言論の自由」(当然これは「ヘイトスピーチ」も含みうる)はぼくたちの社会の秩序を乱す。絶対に乱す。もしナチスを肯定するなら……トラウマに満ちた出来事、歴史において経験しなければならなかったあれらのおぞましい悲劇をろくすっぽ考慮せずに肯定するなら(絶対にあれらは忘れてはならない悲劇だと受け取る)。それは他者を精神的・物理的に傷つける。これらの「自由」の影響・波及効果について考察し配慮する必要もあろう。

ああ! ダラダラ書いてしまった(もし過激すぎたらごめんなさい)。頭が病魔に侵されている……のか、それとも結局ぼくがやっぱりバカだってことなんだろうか?