単純な生活

Life goes on brah!

2024/07/23 BGM: Eagles - Take It Easy

今日は早番だった。昼食時、ふとこんな疑問が頭をよぎった。そもそも、言葉を話すにあたって「流暢」「ペラペラ」であるとはどういう状態を意味するものなんだろうか、と。いや、ぼくはなにもおちょくっているわけではなく大真面目にこんなことを考え込んでしまって、それで結局休憩時間の終わりまでこのことをしつこく問い続けてしまった。ぼくは実を言うと、英語でのコミュニケーションにおいてなんら自分が流暢なスピーカーであるという自信なんて持ったことがない。基本的には日本語でのコミュニケーションにおいてもいつだって(そう、「いつだって」)ただの迷子でありだからこのやっかいで学べば学ぶほどわけが分からない、ゆえに奥が深い言葉を学び始めた初学者・初心者になったような気さえするのだった。

中には(とりわけ、ジル・ドゥルーズがそうした書き手だそうだが)そんな感じで「母国語でつっかえる・どもる」というか「言葉において困難・語りにくさにぶつかる」ことを称揚する人もいるようだ。というのは、そうした困難を乗り越えるべく書きつづける所作を通して言葉の持つ新しい・クリエイティブな可能性を引き出すこともあるからだ。でも、ぼくは(やっぱりただのアンポンタンだからなのか)結局日本語や英語でペラペラだったらそれに越したことはないなあ、ぼくがそういうペラペラだったらどんなにいいかなあ、なんて願う。意思や意見を的確に・適切に、誤解なくスムーズに伝えられたらなあ、なんて。こんなことを考えると、そんなぼくのアンポンタンな脳みそは自然と村上春樹の傑作群に立ち返ってしまう。春樹はまさに、そんなごく基礎的なコミュニケーションの問題を自問自答することからデビュー作『風の歌を聴け』を開始したとぼくは睨んでいるからだ。

ここまで書いたものが如実に・それこそ誤解の余地などありようもないくらいはっきり明かすように、ぼくは書くものがぜんぜんわかりやすくない。スパゲッティのようにこんがらがっている。それはもちろんぼくが(しつこいけれど)ただのアンポンタンだからなのだ。でも、発達障害者と診断されて以来、もうこの障害のある・ヘンテコリンな脳みそと付き合う・向き合うしかないことも覚悟せねばならなくなった。それはもしかしたらそう悪いことでもないのかもしれない。この世界の常識がたしかに変わってきたことを肌で感じるし、そんな感じで「流暢」「ペラペラ」という概念の意味・定義付けも変わってきたのかなあ、なんて思う。

子どもの頃、ぼくはクラスメイトの途方もなく残酷な悪意にさらされ、それこそ「洗脳」の洗礼を受けて彼らにこう思い込まされたのだった。ぼくはクレージーでキモくて、ここにいてはいけない子、歓迎されない子なのだと。この世にいる価値なんてない、生まれてくるべきではなかった、などなど。もちろんそんなことはもう古い話で、忘れるべきだ。できたらそうしたい……が、そうできないのだった。これもまたぼくがアンポンタンだからなのか、なんちゃって(ぼくだってたまには冗談も言います)。

そんなこんなで、夜になり英会話教室に赴く。今日は最後のレッスン日。授業の後半の時間を、お菓子をつまみつつ歓談の時間として過ごす。もちろん言うまでもなく、こうしたクラスはさまざまな方々の尽力によって成り立っている。いつもフレッシュな英語と知識・情報を教えてくれるALTの先生方、この町の国際交流協会の方々、市役所の方々、などなど。それこそ「足を向けて寝られない」というものだ。ありがとうございます!