そうしたことも一因となってぼくはアルコールに溺れたんだろうな、と思う。つまり、ぼくは呑みまくることでぼくの中の「闇の自分」「別人格」を殺したかったのかな、と。完全にそうした人格の息の根を止めることで、ぼくはやっとのことで大人というか真人間になれると思ったのだった。パーフェクトな、いつだって公明正大に振る舞える人間だ。ああ、そんなクリーンな人間になりたかった。欲望を完全に捨てられる、汚いところなんて微塵もない人間に。でもぼくの場合、この孤独と向き合いそうした後ろ暗さ(女の子に煩悩を持ってしまう自分)を恥じなければならず……いや、いまだったらわかるのだ。ただのアホだった。陳腐ですらある、滑稽なお話だ。
いまだってぼくは豊満な女性の美に惹かれる(ミュシャやルノアールが描くような女性、あるいはもっと身近なところにあるエッチな女の子に「萌え」を感じる)。過去(これは大真面目に書いているのだけれど)、この事実を恥じた。どうしてぼくはこうエッチなんだろう、と。この欲望というかセクシャリティを丸ごと投げ捨てること・去勢することはできないか。この股間に存在するものから切り離された知性だけの自分を成立させることはできないか……そうすればクリーンな存在になれるのに。ぼくは男で、それが惨めな事実のようにも思えた。アホだった……男女平等の発想やジェンダーのグラデーションの中の多様性をどう受け容れるかという考え方(もっとも、これはぼくの畏友の受け売りだが)から遠いところにいた、田舎者で時代遅れの男だったのであった。
そんなわけで、ゴールデンウィークもフェミニストの信頼の置ける文献から学ぼうと思っていたのだけど(いやもちろん、ポール・オースターも読みたい)、疲れていたので今日はぐっすり眠ってしまった。いま、トム・ウェイツやルー・リードなんかを聴きつつこの日記を書いている。ああ、ぼくの世界は相変わらず男臭い美学に満ちていて、ここでは書くのをはばかられるような汚れてしまった、血の匂いのする欲望に満ちている。
こないだのグループホームの副管の方との話を思い出し、自分の中にいまだ存在するインナーチャイルドのことを考える。甘やかして、ケアしてあげるべきなのだろう。ぼくには子どもがいないが、その子にとっては父親的な役割なんだろうと思う。だが、ぼくはぜんぜん完璧でもない。言えることと言えば、その子からいろんなことを学んできているということだ。「子を持って知る子の恩」という言葉があったような気がするが、それがこの人間関係の意味なんだろうと思った。ぼくの股間にあるものともそうした対話を重ねるべきなんだろうか。