跳舞猫日録

Life goes on brah!

2023/09/25 BGM: U2 - The Fly

何か間違っているのだろうか……今日は休みだったのだけど、総合病院に行く必要があった。とは言え毎月恒例のぼく自身の発達障害に関する精神の定期的なメンテナンスが主なので、そんなに深刻なものではない。それでその「メンテナンス」が終わったあと、イオンに行きそこで考えごとをする。目当てはいつものように原稿用紙3枚分の書き物をすることだった。だけど、いざ書こうとするとそれまであれこれ頭の中でひしめいていたアイデアが急にシーンと静まり返ってしまい、何も書けなくなってしまった。それまでたくさんあったアイデアが一気に潮が引いたように消え失せてしまう……これは何かぼくの中で「『意識して』書くこと」に「気負い」があるのだろうかと思ってしまった。ぼくとしてはそんな「気負い」なんていらなかったのだけど……もっといつも頭の中でひしめいているような、紋切り型の言い回しになるのだけれど「おもちゃ箱をひっくり返したような」ガチャガチャしたことがらをそのまま文字にしたいとさえ思っていたのだった。ジャンクなことがらをジャンクなままに。グループホームにいる時「ぼくは何て賢いんだろう」とうぬぼれて考えることとか、あるいは端的にエッチなこととか、そんなことを(もちろん良識のフィルターを通したかたちでだけど)書きたいと思っていた、のだけれど……。

しょうがないのでロニ・サイズのドラムン・ベースを聴いたりしてぼんやりする。それで、自分の中のことがらをあるがままに見つめていく。すると、自分がそもそもどうしてそんな「ジャンクなことがら」を表現したいと思ったのかについて思い至る。そしてぼくの中に2つの矛盾する方向性があることを感じる……一方ではどこに出しても恥ずかしくない、完全無欠な「善」に惹かれる自分自身がいる。でももう一方には汚れた自分自身がいる。「悪」そのもの……そんなことを今日は散文に書いてみた。そうした二面性自体は珍しいものではない。むしろ誰だってそうした二面性を生きているとも言える。あるいは、そんな二面性がせめぎ合うところにドラマがあり、その葛藤を踏まえて人は成長するとも言える……あたかもバットマンとジョーカーのように、あるいは村上春樹の小説のように。ならばぼくが「善」に憧れるのは「あらかじめ不可能な願望・夢想」でしかないのだろうか。でも、だからといって「人間はすべからくエッチな存在であるべきだ」と考えるのも「あらかじめ不可能な願望・夢想」ではないだろうか(というのは、ぼくには「完全無欠な『悪』そのものの存在」としての人間がピンと来ないからだ)……そんなことをしたためてみた。「善」と「悪」だけではないだろう。ぼくは英語を学ぶ。そして、同時に日本語圏で生まれ育ち日本的なものに「懐かしさ」を感じる。ここにも二面性は現れているわけだ。そして、時にそれらは矛盾し、ぼくを混乱させる。そうした矛盾を解決させようとして過去にカリスマ的な存在に帰依しようと無茶なことをしたっけ……でもこれについてあれこれ考えると難しくなるし、もっと長いスペースを使って語った方がいいだろう。いまでもそんな自分の中の矛盾についてどう考えたらいいのかわかっていない。そんな矛盾をカワイイと思えばいいのか、どうなのか……何だか話が難しい方向へとどんどん至ってドツボにはまりそうだ。過去にそんな矛盾を一気に解決して生きづらさから逃れようとカリスマ的な存在(宮台真司ウィトゲンシュタインといった人たち)の言うことを何でもかんでも鵜呑みにして、真似をしたことを思い出す。判断停止からの盲従……アホだったなあ、と今なら思える。そんな感じであれこれ午前中に考え込み、それが嵩じて脳がくたびれてしまったせいか午後は何もできずにただぼんやりネットサーフィンにふけって本も読まず、何らクリエイティブなこともできずにダラダラしてしまった。でも、矛盾について一気に「止揚」「解決」できるマジックワードを思い出す。どんな失敗をしようが……「まいっか」「これでいいのだ」。

夜に、そんな感じで朝に書いたことがらを清書する。その後友だちのDiscordのサーバに入りそこでボイスチャットに参加する。とはいえ、なかなか話すタイミングを掴めなくて困った。そこにドイツから来られたという日本語学習者の方が入ってこられ、彼と日本語・英語を交えてチャットをする。なかなか混沌とした展開になり、年齢を訊かれたのでつい正直に「48」と答えると驚かれた。いや、それは「もっとも」なことだ。ぼくも自分がこんな48歳になるなんてつゆほども思っていなかった……ボイスチャットが終わってからも読書しようとして阿部和重片岡義男をかじってみたりしたのだけれど、それもぜんぜん頭に入らない。「もう今日は読書は諦めよう」と見切りをつけてしまった……過去、ぼくは翻訳家になりたいとあこがれを抱いた時期があり、海外の人と「コミュ力」を発揮して交流したいとも思っていた。いま、ぼくはそんなあこがれていた人間になれているだろうか。わからない。ぼくの中には「内向的」な人格がいる。部屋の中で静かに読書にふけって引きこもりたい、と思う自分。でも、「外交的」に社交を楽しむ自分もいる。ああ、ここにも矛盾を見いだせる。その「はざま」に生きる自分が確かに存在する。
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