こうした事実を顧みて、わかることがある。ぼくという人間は実にたくさんの、時に矛盾したりぶつかり合ったりさえする要素で構成されている(おいしい料理の中に塩と砂糖がいっしょに含まれて独自の味わいが出るのと似ているだろうか?)。友だちを作りたい、人恋しさに飢える気持ちを癒やしたいという心情から英語を学び、世界政治を論じるクソ真面目な気持ちも持っている(日本国内の8050問題からガザ地区の問題まで関心を持つが、でもさっきも書いたとおり結局ぼくは無知・無教養のトーシロだという自覚もどこかで忘れたくないとも思う)。加えて、関心・好奇心はシリアスな夏目漱石や村上春樹の文学の話題にも食いつく。同時にエロい話題にも後先考えず飛びついてしまう。ぼくとは実に多面的な・分裂した人間だ。
この多面的な人間性とぼくは1日24時間、1年で365日(もしくは366日)向き合って生きている。もちろん一方でぼくには認知の歪みから来る限界もあって、ぼくのアイデンティティを自力・独力で知り尽くすのはついに不可能なことでもある。したがって、人の助けを借りて自分がどんな人間なのかを学んでいるのが実情だ。でも、その一方で上に書いたような真面目なことがらからエロい事案に至るまで惹かれる自分を見る・知るにつけ、時にぼくは文字どおり自分の中に「白」から「黒(ノワール?)」に至る幅広い人格が同居しているんだなと思う。なんだか怖くさえ感じる。時折、ぼくはそんな黒い自分を見せてしまったりもして自分がどんなに胡散臭いか示す。でも、友だちはそんなぼくに誠実に・親身に接してくれる。実にありがたいと思う。
おかしな話である。ある時から、ぼくは自分がヘボくてヘナチョコな人間であることを示すことを怖がらなくなった。しくじりの記憶・実体験を晒し、酒を独力ではついに断ちきれない人間であることも発達障害者であることや活字中毒であることも晒す。そうしたことが結果的によかったのかそれとも仇となってのことか、なんにせよたくさんの人が耳を傾けて下さるようになりまことにありがたいことと感謝感激を禁じえない。それを思うにつけ、さっそく若かりし頃のムダな努力のことを思う。読者を惹きつけたい、関心を集めて注目されたい(あまつさえ尊敬されたい)と夢見るあまりむなしい努力を重ねた時期のことだ。いま思えば、ただぼくはぼくであればよかったのだと思う。いまはそんなふうに割り切って、それなりに恬淡としていられる(「それなりに」だけど)。
仕事を終え、グループホームに戻って夕飯のかつおのたたきをいただいたあと、今日は毎週恒例のZoomミーティングに参加する。今日の話題は頭にあるムスリム(イスラム教徒)のモスクについてだった。実はいまもってなお、ぼくは偏見で(もっと言えばたしかな内なるおぞましい差別心から)ムスリムの人たちが「他者」「異世界の住人」であると見做してしまいがちになる。アホくさい(だが有害でもある)そんな頑固な思い込みを崩し、価値観をリアルなものにアップデートしていかなくてはならないと切に感じた。今日のような機会はその意味で、ほんとうにありがたいことと思った。