跳舞猫日録

Life goes on brah!

2024/07/27 BGM: Blankey Jet City - 綺麗な首飾り

ぼくがまだ、ブランキー・ジェット・シティの実に才気に満ちた表現を借りれば「ケツの青い最新型のピストル」だった時期(具体的に言えば10代の頃かな)、かたくなにぼく自身は英語が俗に言うところの「グローバル言語」「ユニバーサル言語」であると信じ込んでいた。英語がペラペラだったらどこに行っても通じる(つまり、英語は世界を制覇する言語だ)と。なるほど、たしかに英語は支配していたわけだ……だけど世界ではなく「このぼくの頭」を(ある意味では「洗脳」していたとさえ言えるかなとも思う)。今朝、Twitterでこんな面白い、実に刺激的な意見を読んだ。ぼくたちがこの生活で至るところで目にする手話が、日本語よりも「劣った」言語だという意見だ。あらかじめ言えば、ぼくはこれは実にナンセンスな意見だと思っている。だって、そんなふうにある言葉が別の言葉よりも優れている・劣っているなんてことは誰にも決めようがないと思うからだ。少なくともぼくには決めようがない。でも、この「ナンセンス」を通してぼくはそれなりに面白い考察を練ることができたと自負する。

どちらがどちらよりも優れているのか。このことを考えると、自然とぼくは尊厳の問題やそもそもぼくたちが内包している「差異」「違い」について考えてしまう。あくびが出るほど当たり前すぎる事実になるが、あなたとぼくは違う(それは日本語と手話が違うのと同じだ)。でも、こうしたおのおのの特性からくる相違が「ただちに」誰が誰かより・なにがなにかよりも「優劣」として優れて・劣っているなんてことを意味するとは限らない。うまく言えないが、少なくともぼくのことを書くならばぼくは発達障害者のロートルのエロオヤジである。いまだ不器用すぎて車を運転できないし、何度も学ぶ機会があったにもかかわらずついにフランス語で初歩的なあいさつ1つできやしない。貧乏だし、その他「イケてない」特性は実に盛りだくさんである。でも、だからといってこれが人間としての価値において誰かより劣っているなんてことにはならないとも信じる(「信じる」ことしかできないのが歯がゆいが)。

むろん、このことについて美しくてクサい、腐臭すら放つ「美しい嘘」「美辞麗句」を書き続けるつもりはない。現にさまざまなグループにおいて(一般的な学校や会社において)は、構成員を序列の中で管理している。そしてランキングを設けて、誰が誰より優れていて劣っているか明確にしている。たとえば、あまりにも明白な事実として(またあくびが出るかもしれないが)校長・社長は生徒・ヒラ社員よりも少なくともタテマエとしては上である、というように。でも、その序列はそのグループにおいてのみ有効なんだろうとも思う。個々人の価値は彼らが個人として生きていて、ゆえに貴重な個性(ユニークさ)を湛えた人としてあることなんだろうと思う。いや、これが別種の「美辞麗句」に聞こえないことを願う(これに関しても「願う」ことしかできない)。

でも……別の事実を加味しないといけないのもつらい。というのは、こうした「美辞麗句」「白い嘘」はぼくがそもそもこうした人間であるところから来るのだった。日本語話者であり、相対的に「メジャー」な言語を話しているという事実だ。ぼくがその「メジャー」言語を話す相対的な「強者」として、誰かを「抑圧」してその「美辞麗句」を見えないかたちで、無自覚に押し付けている危険性を踏まえないといけない。これがもし、ぼくが別種の「マイナー」な言語話者だったらどうなっていただろうか。いや、ここから先はまったくもってぼくの「無知蒙昧」「不見識」がバレるだけなので控えることにしたい。