子どもの頃、小学校で教師がそれぞれの子のためにバースデーパーティー(誕生日会)を設ける席があったと記憶する。ぼくの誕生日が来たとき、クラスメイトがぼくにメッセージカードを書いてくれた。読んでみると(いまだに忘れられないのだが)そこには「たつろうくん(というのがぼくの本名なのだが)は、いいところはなにもありません」と書かれていた。いまだにそのことを思い出すと痛みを少しばかり感じる。まあ、そういうのが古き良き学校時代の思い出にまとわりつくエピソードとも言える。なんにせよ、その記憶がこんなふうなぼく自身のねじくれた・ゆがんだ人間性を作ったのかなあとも思う。
今朝、実を言うとまたしても図書館に行き実に面白そうな本、アーティフ・アブー・サイフ『ガザ日記』を借りた。でも、結局午前中はいただいたお祝いメッセージに深く深く心が動かされたので読書に身が入らずぼやぼやと過ごしてしまった。LINEでもジョブコーチやリアル友だちがメッセージをくださった。どう返事を書くべきかわからず、結局あたふたとお礼のコメントなどを送ったりする。ある方はぼくに「生まれてきてくれてありがとうございます」と書いてくださっていて、それがとてもうれしかった。あまりにうれしかったので、夢じゃないかとまで思った。
九州エリアの友だちがぼくのところにお祝いのメッセージをWhatsAppで送ってくれて、それをきっかけに少しばかり先に書いた『ガザ日記』の話をしたりする。その友だちが、ガザとイスラエル、そして日本の関係について教えてくれて実に啓発的なやり取りになった。容易に知られるように、この話題は政治的であり繊細な書き方・語り口を要する。もしくは時間をかけて「下ごしらえ」をした上で語るべきむずかしい話題である。ぼくにできるのはこのすっとぼけた脳みそなりに真面目に向き合い、落ち着いてていねいに考え抜くことと思う。1つ言えるのは、呑まれていてあらゆる夢も希望もドブに捨てて生きていた時代は根深くニヒリズム(虚無主義)に侵されていてこんな話題も「それがどうしたんだ」と思っていたはずだということだ。いまもどこかで、「こんな人生になんの意味があるんだろう」と思う気持ちはある。生命は無目的に進化を遂げるだけなのだ……と。でも、この好奇心や関心が止まらないのもまたたしかで、その意味ではぼくの歩みは止まらないのかなあとも思ってしまった。人生は続くのである。