跳舞猫日録

Life goes on brah!

2024/04/14 BGM: The Aristocrats - Bad Asteroid

今日は早番だった。今朝、仕事中にこんな疑問に思い至った。「なぜ自分は本を読むのだろう。本はぼくにとっていったい何なんだろう?」言い換えれば本とはぼくにとって長く付き合える友だちなのか(それこそ、リアルの友だちのように)、あるいはそれらはぼくが丸ごとコピーしなければならないイデオロギーが詰まったポットみたいなものなんだろうか。

ぼくに限って言えば、この人生を通してぼくはたくさんのトラウマに満ちたできごとを経験せざるをえなかった。クラスメイトはぼくに、「お前はアホだからやることなすことぜんぶ間違っている」とも言ったのだった――ぼくから見れば彼らのほうがおかしかったのだけど。こんなことまで思ったっけ。「なんでみんな、あんなアホみたいなことを常識として信じられるんだろう(たとえば、みんなが実にしょうもない音楽や文学を好きになれる理由って何なんだろう、とか)」。そして、彼らが趣味やセンスを信用しようとしまいと勝手なのだけれど、そんな彼らがぼくのテイストを許せないとかひねくれてるとか「批評」「批判」するのはなぜなんだろう。ぼくは自分が好きなものを表明する権利もないのだろうか。

若くて、まだ柔軟だった頃にぼくはそんな他人の「常識」に屈服し、従おうと無理を重ねた。結果として、ぼくは学んだ。他人の心情を学ぶこともできたのは収穫だった……というのは、やはりぼくが間違っている場合もあったからだ(皮肉ではなく、ぼくがパーフェクト/完璧な人間ではないということは強調しておきたい)。でも、音楽や本の趣味など限定されたオタッキーな分野においては、まだ何かが石にこびりついた苔のように残っているのだった。

そんな悲しい、ひとりぼっちの時期においては本と音楽だけがぼくに真摯に・誠実に向き合ってくれる友だちだった。クラスメイトたちはぼくが間違っていると言い続けたので、本を読む最初の段階でこんな2種の質問を自問することになる。「ぼくはどうしてこうも間違ってしまうんだろう。この本から何を学び、どう活かしたらよりよい人間になれるだろうか」と「みんなはなんであんなにおかしいんだろう。どうしたらぼくは自分の意見をふとらせて、強めて他人に負けない人間になることができるだろうか」。

この2つの問いはいまだぼくが自分に問い続けている問いでもある。それらを問うことで、ぼくは自分の偏見から「外に立つ」ことを試みる。そんなことが、ぼくが本を読み続ける重要な目的の1つなんだと思う。そうした試みを通じて、読書はさまざまな気付きの生々しいチャンスを与えてくれる。そして、「大口を叩く」とも受け取られようがぼくは自分の思索の強度・強靭さが日々の読書を通して強められていくのを感じるのである……どうだろうか。