しかし、時代は変わった。そして少しずつ、このぼく自身も自分を誇れるようになってきたように思う。と同時に、ついに自分は天才でもないのだなあとも認められるようになった……かもしれない。少なくともぼくにとっては「知性」という言葉はそんな天才と結びついている。人を凌駕する圧倒的な才能。でも、そんなことを言い出すならぼくの友だちだってみんなスゴい人たちなので彼らこそそうした褒め言葉にふさわしいだろうとも思ってしまう。ぼくのことを言えばぼくはただ、この市民社会で細々と暮らす読書とジャズを好む凡人にすぎないのだった。
だが、天才ではないにせよぼくにだって言い分があるし言論の自由や発言権はあるだろう。だから書くのだけれど、ぼくにとってほんとうの賢さ・知性とはこういうことなのだと思う。それは他人と「共有」できるものだ。つまり、「オープン」なものである。賢さから生まれる名案や明晰な思考をそのまま他人に分け与えられ、それによって世界をよりよくできる。少なくとも、その種の才能は人を打ち負かしたり屈服させたりするために使われてはならないのだと信じる。
ぼくは自分が賢いのかどうかわからない――わかっておかないといけないだろうか。ぼくが賢かろうかアホだろうが、ただ正しいと思ったことをこなしていくだけだ。それで充分だと信じる。嘘をついていると思うだろうか。でも、これがぼくの本心だ。ぼくよりスゴい人は山ほどいる。彼らは一流大学を出てもいなければ一流企業に勤めているわけでもないかもしれないにせよ。40の歳にいまの自助グループの活動と関わり友だちと出会って以来、ぼくの感覚はそんなふうに変わってきた。アップデートされた、とさえ言えると思う。
思い出す……ぼくの知り合いに賢い人がいる。その方と最初に会った時、その才能に嫉妬・羨望さえ感じたものだ。それこそアホな話だった、といまなら思う。その方のその能力が時に彼女を苦しめているということにもっと鋭敏でなければならなかったのだ。ぼくの発達障害がぼくにとって生きづらさを招く源泉でありうるように。いまでも、そんな愚鈍さ・無知蒙昧が自分の中にあるのを感じる。だから、ぼくは人のことや世界のことがわかるほど自分自身が賢いとは思えないのだった。