跳舞猫日録

Life goes on brah!

2023/06/18 BGM: 井上陽水 - あの素晴しい愛をもう一度

今日は休みだった。図書館に行き、そこで沼野充義の本を何冊か借りる。あとは邵丹『翻訳を産む文学、文学を産む翻訳』という本が面白そうだったのでそれも借りた。最近のぼくの関心は、こうしたぼくたちが使っている「言葉」そのものに関する問題に向かいつつある。異論があるかもしれないけれど、ぼくは人間とは「言葉」なくしては生きられないと思っている。そして「言葉」というものが基本的に自分と他人をつなぐブリッジ(橋)の役割を果たすものである以上、ぼくたちは孤独に自分の世界に閉じこもって生きることはできないとも思う。仮にぼくたちが引きこもらざるをえないにしても、「言葉」を通して物事を捉えたり考えたりする以上はぼくたちは自分自身を他者に見立てて自己内でコミュニケーションを試みているとも言えるのではないか。そう考えてみると「言葉」というものは不思議で、ここからウィトゲンシュタインの哲学まではそんなに遠くない……ぼく自身自分の中から出てくる「言葉」(日本語のみならず英語も含めて)に日々驚かされているので、この読書が何かを与えてくれたらなと思っている。

朝10時になり、ZOOMを立ち上げる。そして毎月恒例の発達障害を考えるミーティングに参加する。今回も有意義な会だった。参加された方から「家事と仕事の両立」の秘訣について学び、あるいは就労支援施設に関する情報を教わる。このミーティングは常にぼくにとって「学び」の場である。ぼく自身このミーティングを通して知らなかったことをたくさん「学ばせて」もらっている。それは単に「ぼくが誰かからいろんなことを教わっている」という一方向的な関係を意味するのではない。「ぼく自身が誰かにいろんなことを提供できる」という関係だって成り立つ。そうして「相互にいろんなことを教える/教わる」という関係をぼくたちは楽しんでいる。そしてそれはぼくたちが「対等」でなければできないことだ。このミーティングでは、少なくともぼくはメンバーたちは「対等」な関係から語り合えていると思っている。ここには「先輩と後輩」「上司と部下」といった上下関係はない。腹蔵なく悩みをシェアできるし、そこから新たなことを「学べる」。それがぼくにとって「心のオアシス」、いや「心のニルヴァーナ」とさえなっている。

今回、ぼくはふとこの日記を実に熱心に読んで下さっているロシアの女性のことを他のメンバーたちにも話してみた。その女性が発達障害について関心を持っていることを話して……ぼくたちは専門家の集まりではないので、彼女の疑問や苦悩に有益な答えを必ずしも出せるわけではないことを断らないといけない。そしてそのロシアの方について、他の方も「その方の力になれたら」と協力的な姿勢を見せて下さったのでぼくも安心した。ミーティングの午後の部では『僕の大好きな妻!』というドラマについても話が及ぶ。このドラマは発達障害を扱って人気があるらしい。ぼくもそこから『グッド・ドクター』や『ウ・ヨンウ弁護士は天才肌』といったドラマを想起する。発達障害を抱えて、それゆえに一方では「天才肌」を発揮して生きる人たちの話がドラマとして広まっているのを確かに感じる。もちろん、こうした動きにまったく問題がないというわけではない。誰もが認める才能がなければ発達障害者は認めてもらえないのか、という見方だってできると思う(ひねくれてるかな)。でも、ともあれそうして発達障害がホットなトピックになること自体はぼくは素朴に「いいこと」「慶賀すべきこと」だと思うのだった。

会がはねた後、ぼくはイオンに行く。くだんのロシアの女性にWhatsAppを通してメッセージを送る(うっかりしてここまで書いていなかったが、ぼくたちは英語でやり取りしている)。ぼくたちが歓迎の意でお迎えしたいと思っていることを記して送る……すると彼女から挨拶のメッセージとぼくたちへの質問事項が届いたので、いつもはノンキ坊主なぼくもさすがに「気を抜けないな」と思いそれをプリントアウトしてぼくなりに読み込んだ。その後グループホームに戻る。それで、昼にそんな話をしたこともあって夜はまだ「完走」していなかった『ウ・ヨンウ弁護士は天才肌』を(これは実に優れたドラマなので)見ようと思っていたのだけれど……なんだかZOOMのミーティングは集中力を使ってしまったというか「食われた」ようで、ぜんぜん頭が働かず夜はぼんやり過ごしてしまった。父の日を祝うメッセージをLINEで送るのも忘れてしまった……ああ、発達障害とはなんとも不思議な障害だと思う。この障害を抱えて生きなければならないことに何度も悔し泣きをしたことも思い出す。でも人生とはうまくできているものだ。結局そうした障害があったからこそぼくはこうしてステキな人たちと出会えて、そこからいろんなことを「学ぶ」ことができたのだ。