読み進めていた谷川俊太郎の『散文』を読み終える。谷川俊太郎が書く散文は実にみずみずしく、大げさな言い方になるが「日本語の旨味・滋養」を楽しめる読書となった。そして、詩作やこうした散文を生み出す彼の頭脳について考えてしまう。この賢明さ・聡明さはどこから来るのか。前に池澤夏樹が辻邦生や丸谷才一に関して語っていたことを思い出した。そうした偉大な文人たちは「選ばれし天才たち」なのか、それとも結局は「ただの人間」なのか。谷川の散文から見えてくるのは1人の「生活者」「俗人」としての姿であり、そこに気取りも嫌味もまったく感じられない。「自然体」の「洒脱」な姿……世の中には確かにいったい何なのかわけがわからない「天才」がいることは確かだ。でも、ぼくはむしろ「どこにでもいる」「ありふれた」たたずまいを見せつつその凡俗の相貌の中に凄みを隠し持っている「異才」「奇才」に惹かれるのだった。ぼくにとってはまさに村上春樹や大江健三郎、ポール・オースターがそうした「奇才」である(この受け取り方に異論もあるだろう。積極的に受け容れたい)。そしてぼく自身もそうした「生活者」としての「表現者」になりたいと日々思っている。そうして世界に溶け込みつつ、その世界にさまざまな思いを「語りかける」人間に憧れる。
朝、英会話関係のミーティングにZOOMで参加する。そのミーティングには日本人のみならずインドからも参加者が1人居られた。彼が達者な日本語を操って例文を書くのを、ぼく自身驚嘆する。その方のみならずどの方も実にレベルが高いと今回あらためて思った。「after all(結局)」と「all year round(1年中)」という英語のフレーズを使って英作文をみんなで試みたのだけれど、ぼくがふと「I've been wearing the same pants all year round(ぼくは1年中同じズボンを履いています)」という作文を作ったところそれが「ウケて」しまった。ぼくとしては「pants」という言葉を「ズボン」という意味で使いたかったのだけれど、他の方はそれを「(下着の)パンツ」という意味で受け取ったのだった……もちろんこれはぜんぜん間違いではなく、イギリス英語もしくは日本語の文脈では「ありうる」「まったくもって妥当な」解釈だ(後で教わったのだけど、とにかく明るい安村がイギリスを湧かせていることで話題になっておりその彼もステージで下着の「パンツ」のことを「pants」と表現している)。いやはや……だが、そうしたハプニングが「ウケた」ことをホストの方も喜んでおられて、ぼく自身の「天然」な発言もそんな感じで人を喜ばせることになるのだなとうれしく思った(ちなみにイギリス英語では「ズボン」は「trousers」となる)。
昼に上述した『散文』を読みつつ、延び延びになってしまっていた先々週の日曜日の発達障害絡みのミーティングの記録を仕上げる。あらためてぼくたち発達障害者が自分の障害を「知った」「悟った」過程について振り返ってみる。参加者の方が「爆発」という言葉で自分の障害がもたらした生きづらさが限界を迎えたことを表現しておられたのが印象的だった。これはぼく自身の過去を振り返っても思い当たることだ。日々の些細なコミュニケーションの行き違いが生み出すストレスが己の中で蓄積されていく。それを上手に解消・昇華する術がなくある日「破裂」する……逆に言えばそうした「爆発」「破裂」に至ってしまい「メルトダウン」しないためにどうしたらいいのかについても考えが及ぶ。ぼくのことを書くと、ぼくの場合はそうした「メルトダウン」は過去は飲酒や衝動買い・やけ食いといった形で現れたようだ。酒は止めたのだけれど、衝動買いについては今もついついAmazonで「ポチる」こともある。ならそうした「メルトダウン」に至らないために上手に「ガス抜き」「メンテナンス」を施す必要がある。お金の使い方についてここ最近ふたたびぼく自身悩んでいたところだったので、LINEなどでそうして「ガスを抜く」作業が必須であることを再確認した。
夜、断酒会に行く。そしてそこで日曜日の「事件」について話す。今回はぜんぜん断酒と絡まない体験談になってしまった。他の方が、その方がFacebookで知り合ったとある方について話された。その方と語らう機会が大事なものであること、そうした時間はいったん失われると二度と戻ってこないということ。したがって1人で自分の殻の中に閉じこもってしまうのではなく、会える時に会える人と楽しい時間をシェアすることが肝要だ、と……それはまさに朝にぼくが参加させてもらったミーティングやあるいはこの断酒会がそうで、断酒会はぼく自身参加して8年になるが未だに会でいろいろなことを学ばせてもらっていることを確認する。会が終わった後、就寝時刻までの時間をフェルナンド・ペソア『不安の書』を読み過ごす。そしてペソアが記述する主人公もまた、「勤め人」「生活者」として倦怠の中を生きながら同時に抜きん出た詩作の才を発揮した人であったことを思った。『不安の書』はこれでたぶん6周目。当面飽きることはなさそうだ。その合間に谷川俊太郎の詩選集を読む。10時を回り、「今日の詩」を投稿していなかったことに気づいてあわてて清書して投稿する。詩作もこうして見ると実に「板についてきた」……だろうか。