跳舞猫日録

Life goes on brah!

2023/07/30 BGM: Hayden - The Closer I Get

今日は変則的なスケジュールで、正午より仕事をすることになる。それで戸惑ったりしたのだけれど、何はともあれ午前中いつものように詩を書く。書きながら、こうして自分が実際に「書ける」ようになるとは思ってもみなかったと思った。ぼくが「作家になりたい」という夢というか甘美かつ幼稚な願望を持ち始めたのはいつの頃からだっただろうか。何かを書きたいと思ったのは中学生くらいの頃のことで、そこからノートに自作のラノベ(という言葉は当時はなかったけれど)を書いてみることを試みたことを思い出す。だが、完成させられたためしはなかった。高校時代に短文でレビュー(本や音楽作品などについてのブックレビュー・CDレビューだ)を書いてみたりして、「ライターになりたい」という夢をもまた膨らませたことを思い出せる。要するに書くことを通して、昔風の言葉でいえば「筆耕」「筆一本」で食えればというのがぼんやりした願望の骨子だった。そしてネットに触れるようになってから自分であれこれウェブ日記やブログ記事を書いてみたりするようになったのだけれど、でも今のように本格的に「完成された詩」を書くところまではぜんぜん至らず未完成なものを書き散らして過ごしてきてしまった。

そして、今となっては実にアホみたいな話だと思うのだけれどぼくは村上春樹に憧れを抱いていたので「いつか彼のように書けるようになる日が来る」と夢見て生きていたのだった。ぼくも、かつての村上春樹ヤクルトスワローズの試合を見ていて天啓のように小説のひらめきを得て、そこから作品を書き始めるまでに至ったというそんな日が来ると思った……そして48まで生きてしまった。だが、そうした出来事というのは「実際に起こる」ものでもあるのだ(なんだかチェスタトンの逆説みたいだけれど)。この日記にも前に書いたけれど、ぼくは今年に入ってある日未来屋書店の店頭で谷川俊太郎の詩集を買い求めた。その時、「もしかしたらぼくにも詩が書けるかもしれない」と思ったのである。過去を遡ればこのひらめきまでに至るきっかけはあった。女友だちから「詩を書くこともできるんじゃないですか」と薦められていたこと、そして実際に詩を(日本語や英語で)書いてみたりしたということ……でも、そこからぼくの中で何かが「爆発」して今のような詩作へと膨れ上がっていったのは「春樹的」な出来事のようでもあると思った。ぼくにとっては「奇跡」みたいな出来事だ。

ぼくには「才能」があるのだろうか。それはぼくにはまったくもってわからない。今のところ「枯渇」「限界」を感じずに何とか詩作は続けられているのだけれど、意外と早々に「退屈」「無理」を感じて止めてしまうものなのかもしれない。ただ、こうして書き続けていると自分の中で詩作という創作手段は性に合っているようだ。自分で言うことでもないけれど、つとめて「勤勉に」「規則正しく」詩作を続けていく。少なくとも、ぼくは自分の「詩才」を過信したりしたくない。何の神秘性のかけらもない「作業」の中から出てくるものを信じる。それは一方では判子を押して書類を片付けていくような、面白味も何もない作業のように見えるだろう。だが、そうした事務的・無味乾燥な作業の中からでも神秘的・天才的なものは出てくるのではないか。いや、ぼくにそんなものが書けるかどうかは誰にもわからないと思うのだけれど、少なくともぼくは「ワイルダネス(野性)」に則って破天荒に生き酒や色恋沙汰に溺れていく、そうした創作(書いていて「いつの時代の話だよ」と思ってしまったけれど)を信じないのだった。それはある種ぼくにとってアートの「既成概念」をぶっ壊す「パンク」な態度だとさえ思う。まさに村上春樹がそうであるように。

そうした仕事の合間に、なんとなくカバンの中に入れていた沢木耕太郎『246』を読み返す。沢木耕太郎がこの日記で書き記す生活もまた一種地味で渋い、カタギの勤め人のような仕事ぶりに裏打ちされたものだ。そしてそれでいいのだろうとも思う。ここ何年か、ぼくはこうして「すでに読んだ本」を読み返して安心感に浸る日々が続いている。いや、今日は池澤夏樹の詩に関する著作を図書館で借りたので「まだ知らない本」にぜんぜん興味がなくなったというわけではない。だけれど、自分が発達障害者とわかった時期からかぼくはそうして「自分の生活をしっかり」「ルーティーンを可能な限り守って」を心がけるようになった。そうした方が気持ち的にラクに生きられるからだ。毎週水曜日の断酒会のための休みの日を休み、あとは日曜日も休めれば休み、それ以外の日の仕事をレギュラーとして働く。たまたま今日は仕事だったので剣呑だったのだけれど、帰って土用の丑の日ということでうな丼を食べることもできて有意義な日になったと思った。断酒して、シラフの頭でつとめてドライに淡々と日々を過ごす。思わぬひらめき・啓示は意外とそうしたドライな毎日から生まれうるものなのかもしれない。それもまた人生だ。