そのぼくの発表を聞いて、他の方から「よかったです」「NHKの解説みたいだった」というコメントをいただいた。「話す練習をされたんですか」と言われて……これに関してはぼくはとりたてて「話し方教室」に通ったわけでもなくて、ただ40の歳に断酒してから断酒会に通い始めたりあとはこの「発達障害を考える会」のミーティングに出たり、英会話教室に通ったりして自分なりに文字通り「口を動かして」話すことを始めたからそれがいい特訓になったのかもしれないと思った。その意味ではこのミーティングを含めて「実地で」「リアルに」ぶつかることは大事ということになろう。他の方の話も実に参考になった。アドラーの『嫌われる勇気』のこと、訪問看護ステーションの実態、就労のリアル……実を言うとここでは書けないことあり、昨日書いたように「ぼくも自分の人生を自分なりに真剣に生きて、何か人に還元できたら」「何かを残せたら」と思っていたのでそこからあらためて、人生のさまざまな事態・局面において「先を/前を行く」人たちからヒントを得たように思った。その後、お米を炊く。食費の節約の試みとして炊くことを考えたのだけど、やってみたらおいしかったので「おかわり」してしまいそうになった……。
図書館が1週間休館期間を迎えるということで、なのでいまのうちに借りに行けたらと思って赴く。そこで、黒川創『鶴見俊輔伝』や前に書いたカレン・チャン『わたしの香港』、坂本龍一『坂本図書』、平出隆『鳥を探しに』などを借りる(読めるわけなんてないのに!)。今日知ったネットの記事では、いまの若い人は紙の本も電子書籍も読まないとのこと。彼らの現状認識のあり方や価値観の実態を知らないので何とも言えないが、ぼくとしてはこれを「ただちに」嘆くのも現実的ではないと思う。娯楽はたくさんある。いまはYouTubeやさまざまなソーシャルメディア、ゲームや映画・ドラマや音楽といったエンターテイメントが花盛りだ。ぼく自身は「慣れ親しんだ」から、そうした百花繚乱の状況においても本を読むことをついつい選んでしまう……問題はそうしたエンターテイメントの触れ方から「話が通じなくなりうる」ことではないかとも思った。いや、新しい指摘・懸念というわけでもないのだろうけれどたとえば「村上春樹を紙の本で読んだ」人と「YouTuberの解説で触れた」人との間には見過ごせない「ずれ」「齟齬」が生じうるのではないかなとも思ったのだ。こんな時代において「教養」を身につけるのが難しくなってきている、という……そんな見立てをしてしまった。
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夜、グループホームでくつろぐ。その後早尾貴紀『希望のディアスポラ』を読む。この本を手に取ろうと思ったのは昨今のイスラエルとパレスチナの情勢を見てのことだ。「ディアスポラ」「ポストコロニアリズム」といった言葉に、過去にぼくもこの日本で生きづらさを感じていた時に「日本という国を『棄てたい』」とか「国を持たない『ディアスポラ』こそ希望だ」ととんでもない誤解をしていたからだ。早尾貴紀氏のこの本を虚心に読み、そうした「国を持たない」「移民・難民」が見舞われている厳しい現実についてあらためて教わる。この「日本国民であるぼく」からできることは何かないだろうか……そんなことをいま一度思った。余談になるけれど、それこそ過去のぼくは「ナショナリズムなんて妄想だ」とか「国に囚われないノマドな生き方こそ理想だ」といった「風来坊/ノマド」をこそ生き方の理想と考えていた。そんな自分を恥じ、こんな時代においてこそなお国家の建設や安寧を目指す人びとのことを学びたいとも思っている……といった理解も「頭でっかち」だろうか。何はともあれ、「いま・ここ」でできることを堅実に、ていねいに行いたいとあらためて思った。ぼくが「生きて、語り継ぐ」こと。ぼく自身が幸せになること。それが人にとっても幸せになりうると信じる。