跳舞猫日録

Life goes on brah!

2023/10/10 BGM: ACO - 悦びに咲く花

Xのアカウントを消そうかと思っていて消せない理由の1つに、Xユーザーの中には「侮れない人」「慧眼の持ち主」というのが確実にいるからだ。その人たちはいち早く、面白い本や映画や音楽をチェックしている。今日もXを見ていて姫野桂の新刊『ルポ 高学歴発達障害』が出ていることに気づいた。さっそく読んでみたいと思う。発達障害の話題がトレンドの1つとなっている現代において、姫野桂はぼくが注目している書き手の1人である。読んでいない本について語るのはもちろん失礼というものだが、「高学歴発達障害」ということでいえばすでにライフハックを紹介して支持を集めている当事者の書き手・借金玉のような人もいる。「勉強はできるのに仕事はできない」「高学歴/インテリなのに生きづらさを感じざるをえない」というのは「ついつい見落とされがちなテーマ」でもあると思うので、そんなテーマにスポットライトを当てた彼女の仕事に興味を持った。さあ大変だ。図書館で昨今の情勢のことを考えて「よし、イスラエルパレスチナの問題について学び直そう」と思って岡真理『ガザに地下鉄が走る日』を借りるつもりが、この本も読みたいと思ってしまったのだから。まさに衝動で動く多動なぼく自身の発達障害が丸出し・丸見えになったと言える。

ぼくが参加しているグループの1つに、地元のお寺で行われている哲学カフェ的なサークルがある。そこでぼくたちはスローガンを決めたことがある。「そのままのあなたでいいんです」「変わる必要はないんです」というものだ。実を言うと今日、会社に元上司が来られたのだけれどその方と仕事をしていた時の(もっぱらロクでもない)思い出がよみがえってきて、それであらためてこれらの言葉が思い出されたのだった。「そのままのあなたでいいんです」……この言葉について実はぼくははっきりした態度を決めかねていた。否定するつもりもないけれど全肯定したいとも思えず、つまりこの言葉を「結論」とするのではなく「はじまり」としていろいろ考えたいと思った(その意味で実に有意義な言葉だと思った。これはホンネだ)。最近読んだ宮口幸治『ケーキの切れない非行少年たち』の中にも、世の中の風潮における「頑張らなくていい」という風潮や現状追認型の教育に諫言する厳しさと深さを見せていたのを思い出す。上司のことを思ううちに「ぼく自身ははたして『変わっていくこと』、『上司に歩み寄ること』を試みるべきだったのかな」と思い、そしてこれらの言葉やアイデアに思い至ったということなのだ……。

英語では「Be Yourself」となるこれらの言葉について、情けない話になるけれどぼくは48になったいまでも「答えられない」「わからない」としか言いようがない。ただ、何度もこの日記で書いてきたけれどぼくはこの頑固でエッチなぼく自身について、なんとかして改めようとして努力をぼくなりに重ねてきたということは言えると思う。ぼくも学歴はともかくとして「発達障害」者の1人であり、でもそんな自分に甘んじたくないと思ったことは確かだ。英語を学ぶのも本を読むのもこうしてブログを書くのもその試みの帰結だ。でも、ぼくにはこのぼくが変わってきたと言えるのか、成長しているのか劣化しているのかまったくわからない。だからこれに関しては皆さんのコメントが頼りだ。ただ、10年くらいのスパンで見れば「ぼく自身から見たぼく」は確かに変わったと言えるところはあるのかなとも思える。思えば10年前はそれこそXに朝から晩まで仕事そっちのけで入り浸っていたのだから。そうして長い目で見れば人も世界も時代も「徐々に」「確実に」変わるし動く。常識自体コロコロと変わっていく。その「変わる」時代において、あえて反動的・反時代的に「そのままのあなたでいいんです」と訴えることはむしろ戦略的な、狡猾な、ゆえに大事なことなのかもしれないと思った。これについて考えていくとほんとうに面白い。

夜、前に読んだ山口仲美『日本語が消滅する』を読み直した。日本人としてのアイデンティティについて……そこから「いや、そもそも(なかなか日本語にならない言葉である)『アイデンティティ』とは何だろう」とあれこれ考えてしまう。ぼくなりにひらたく言えば「自分らしさ」「俺節(女性でもこの言葉は使ってもいいと思う)」となるこの言葉、使いようを間違うと「これが私なのだからそれこそ『変わる必要はない』」とかたくなになってしまう陥穽・危険性があるとも言える。「変わる必要はない」と言いつつ、他者に対してオープンマインドに対峙することは厳密に考えていけば「『変わらなくていい』と言いつつ『変わっていこう』と語りかける」とも言えるのではないか……だがこれについてくわしく書く余裕はない。今日はそんな感じで、もっぱら「自分らしさ」について考える1日となった。「ぼくらしさ」を保ちつつ、その「ぼくらしさ」を徐々に(認知の歪みを直したり、人との関わりの中で自分を見つめ直したりして)変えていく。そんなことができるのが大人の知恵なのかな、と。なら、そんなことをぼくはできていると言えるか。これについてもぼく自身の立場からは「答えられない」「わからない」としか言いようがないのだった。