姫野桂『ルポ 高学歴発達障害』について、日曜日の「発達障害を考えるミーティング」で話すつもりがなかなか自分の中で「これを話そう」というアイデアの像が見えてこない。いちおうサラリとこの本を読んでみたのだけれど、思うことというのは「やはりマニュアルがあるようでない『就労』『仕事』の現場でつまずくのだな」ということだった。学校では教科書通り・先生の指示通りにやっていればともかくも「いい子」「優等生」として褒められた。それはぼく自身にもわかることで、とりわけ(手前味噌になるが)発達障害者は素直さを持ち合わせているのでそこはスムーズに行くのは納得できる。だが、何よりも「臨機応変」が求められる仕事の現場ではそうした素直さは「自分がない」「主体性がない」という「裏目に出る」要素となる。これ以上のことはもっと『ルポ 高学歴発達障害』を読み込まないとわからない。「だからマニュアルを作って下さい!」「それが合理的配慮なんです」というこちら側からのお願いというのは定型発達者からどう映るのだろう。いや、これはひどく傲慢・向こう見ずでもありうるので気をつけないといけないとも思った。そう言えばぼくも「仕事は『盗む』ものだ」と言われたことがあったっけ。マニュアルを作ることも、合理的配慮を求めることもそんな現場では……いや、これ以上は言葉にしない方がいいだろう。
昼、ひきこもり問題をめぐる講演を聞かせてもらうために近所の防災センターに行く。ぼくの住む町で「居場所」を提供しておられる3人の方々(いずれも元ひきこもりの過去を持つ)が、自身のつらい記憶を語られた。そこから、「いま」ひきこもりの方々や生きづらい思いを抱えつつ就労している方々を支援する現場の風景についても話をされた。思えばぼくも半年「ひきこもり(というかニート)」な時期があったっけ。その時期、ほかでもないこのぼく自身が「もう生きていくのはしんどい」という思いや「死にたい」という気持ち、そして相反する「死にたくない」「死ねない」という気持ちを抱えていた。中島義道風に言えば「生きるのもイヤ」で「死ぬのもイヤ」な、宙吊りな気持ち……そこから「『いま・この瞬間』こうしていることが耐えられない」と思い「こんな自分を申し訳ない」とも思った。これは究極の自己否定だ。そこから、どのようにして「自分はOKだ」と思えるようになったのだろう……と思った。そんなことをぼくは質疑応答で問うたのだけれど、相手の方の1人が「いや、まだ自分は自分のことをOKと思えないです」とおっしゃったのが心に残った。それはその方の誠実な態度であり答えであると思った。その誠意にあらためて感謝したい。その後部屋に帰り、部屋の中でだらけてしまう。英訳を頼まれていたりやるべきことはあるのだけれど。
夜、岡真理『ガザに地下鉄が走る日』を読み終える。読みながら「『人間らしさ』とは何だろう」という問いにぶつかってしまう。言い方を変えれば、ぼくがぼくの「人間らしさ」「優しさ」を失い血も涙もない「機械」に成り果ててしまうのはどこからなのだろうか、と……この本ではガザ地区のつらい現実がつぶさに語られている(コロナ禍以前に書かれた本だが、いまなお『夜と霧』的な強度を備えた労作であると感じる)。ぼくのような島国の日本に生まれ育った、それゆえに侵略される可能性も相対的に低い環境で育った人間には見えない「明日死ぬかもしれない状況」「最低限の文化生活や衣食住さえ保証されず、人権すら与えられない絶望的な環境」のリアルが見えてきて、ぼくも「襟を正す」思いを新たにした。だが、そんな環境であっても希望を失わない生き方はできる。それがたとえばこのタイトルに記された、ガザのインフラが整い「地下鉄が走る日」が来ることを目指す態度だ。ぼくならどんな生き方ができるだろう……そんなことを思い、その後新土さんのXのスペースに入って話を聞かせてもらう。消灯時間になったのでゆっくり話を聞かせてもらうこともできなかったが、彼の「ハンストで空爆を止める」という態度の重みについて考えないといけないと思った。ぼくはそれ以上に、「読書によって空爆に抗う」なんてとんでもなく、何と言えばいいか……いや、これも言葉にしない方がいいのかな。
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