跳舞猫日録

Life goes on brah!

2024/01/12 BGM: Peter Gabriel - Biko

今日は遅番だった。今朝、アミン・マアルーフ『アイデンティティが人を殺す』という本を読む。この本の中で著者であるアミンは人がどれだけたくさんの要素を心の中に内在させうるか語っている。たとえば、ぼくの中にだってたくさんの要素がある。男であり発達障害者であり、エッチであり本の虫であり、日本人であり……といったことだ。だからぼくは自分のことを単一のアイデンティティでくくることはできない。そう、それはとても印象深い読書体験だった。

思い出すのは過去、ぼくがまだ若くてアホだった頃にとても混乱して、心の中がめちゃくちゃだった状態にあったことだ。カート・コバーンさながら、不幸・絶望が極まって物騒なことを考えたりした。なぜこんなむずかしい・生きづらい人生を歩まないといけないのか見出そうともした。本を読み、このむずかしさの源泉・理由を探ろうとした。少しずつ、いろんなことを学んだ。アダルト・チルドレンではないかと思ったり、ある種人格障害境界性人格障害とかですね)だと思ったり、はたまたトラウマのサバイバーであるとまで思ったり(「毒親」によって育てられたわけではまったくもってなかったのだけれど)。

そしてついに、ぼくはたどり着いたのだった。それが「発達障害」という言葉で、ある女友だちによって教わったのだった。このキーワードというか考え方はぼくを助けてくれた。自分がどうしてこんな人生を生きてきてここにいたるのか、を津々浦々まで。でもそれは副作用もあった。その概念を信じすぎるあまり「発達障害者だからこんなみじめでどうしようもなく救いのない、不幸で、女の子にもモテない人生を歩んで孤独に死んでいくんだ」とまで思い込むことになったのだった。ある意味、檻ないしはドームの中に閉じ込められていたような感じというか。

そして時は流れて……いまはこんなふうに考える。前にも書いたが、「発達障害者」はアイデンティティに張り付く1つのラベルだ。この「発達障害者」であるという事実を拒否して生きることはできない。向き合わないといけない事実だ。でも、この事実にあたかもイデオロギーみたいにというか教義みたいにというか、とにかくクソ真面目に支配・コントロールされて縛られて生きるのもバカバカしい。さっきも書いたけれどぼくの中にはたくさんの要素がある。その意味でぼくはスープみたいなものなのだろうと思う。さまざまな具材を含んだポタージュスープみたいな、というか。

ぼくの人生は時に謎めいて、フェアではないように見える。どれだけ懸命に他人のために働いても、どれだけ真面目に学んだとしても、非合理的な結果として終わるだからこの混乱した複雑怪奇な状況で秩序を見出そうとして、物事をわかりやすくしようとしたいと思ったりもするのだった(ぼくは賢くないのでそうした「単純化」「整理」への誘惑に弱い)。その意味では「発達障害」は過去、ぼくに世界・物事をわかりやすく捉え直させてくれるマジカルなキーワードだった。でもいま、ぼくはこのカオスな世界、混沌とした状況をまず虚心に見つめることが大事なのかなあ、と思う。京極堂的な探偵がまずわけのわからない殺人現場をていねいに見つめて状況から手がかりを拾い、そこから推理を組み立てるように(と書いて、久々に京極夏彦姑獲鳥の夏』を読み返したくなってきた)。