跳舞猫日録

Life goes on brah!

2024/01/10 BGM: George Michael - Faith

今日は遅番だった。朝、いつものごとく図書館に行きそこで『ノンバイナリー』という本を借りる。この本はとても大事なコンセプトを教えてくれる本と踏んだ。いまはまさに「多様性」の時代。ぼくはこのノンバイナリーな方々(つまり「男性/女性」という二分法をこそ疑う性自認を選んだ人たち)について、こうした本を含むさまざまなソースから学ばないといけないとあらためて思わされる。ぼくは肉体的にも精神的にも男であり、こうした性自認アイデンティティについては疑ったりトラブルを感じたりしたことはない。ゆえに、ぼくはそうした「ノンバイナリー」な人たち、そうしたアイデンティティを選んだ人たちの声に注意深く耳を澄ませて聞き取り、理解しないといけないと思った。そう、できるだけ思慮深く。

今朝、ぼくはぜんぜん読書も何もはかどらずしたがって何も生産的なことができなかった。これはたぶん天気が悪かったからだろう。思い出すのはぼくがまだ呑んだくれてヘロヘロで生きていた頃――そしてそんな中夢をこじらせて独りぼっちでもあった時代――あるおかしな、アホみたいだけど切実な強迫観念あるいは義務感に取り憑かれていたのだった。その強迫観念/義務感にそそのかされて、何か生産的なことというかムダにはならないことというか、とにかくハッピーなことをいたるところでいつもやり続けないといけない、時間をムダにしてはいけないとあせりを感じていた。レディオヘッド「Fitter, Happier」という曲の世界のように、ぼくはそうした心のプレッシャーにとっ捕まって、追い込まれていたのだった。

でもいま、そんな強迫観念からぼくは自由になれていると言えるか。それはわからない。でも、いまぼくは人生において物事を多角的にというか、いろんな側面から捉えられるようになってきたかなとは思う(少なくとも、ぼくはそう試みているつもりだ)。たとえば、ぼくがヘビードリンカーだった頃はぼくは実にムダに、むなしく酒を消費して過ごしていた。でもそんな不幸な経験はこの価値観をぼくを構築する1個のレンガのように築き上げている。だからそんな酔いどれた日々はムダではなかたかな、とも言える。ああ、なんだか禅の哲学の世界のようだけど。

でも、このことを踏まえないといけない。いまぼくはぼくのこと、ぼくの人生のことをこうして柔軟に考えられる。でもこうも言いたい。ぼくはここに、この境地に1人で達したわけではまったくもってありえない。ここに来るまでにぼくはぼくのストーリーやぼくの真実(人生がどうだったか、日々がどうか、などなど)を他人にさまざまな機会においてシェアし続けてきた。ミーティングや議論において。たとえば、ぼくが所属する発達障害関係の自助グループ英会話教室、断酒会などだ。そうしてぼくはぼくにまつわる大事な事実を受容してきたのだった。アルコール依存症であり発達障害であり、といったことだ。いま、ぼくは自分がそうしたアルコール依存症発達障害を離れた「まったく赤の他人」であることをイメージすることはできない。過去にあれほど「この発達障害が自分を不幸にしている。ああ、こうでなければ」と夢想に耽ったのが嘘のように。