跳舞猫日録

Life goes on brah!

2024/05/06 BGM: The Velvet Underground - Here She Comes Now

最近この日記でも頻繁に書いてきていることなのだけれど、書くとなるとどうしたってこのことしか書けそうにない。10代の頃、ぼくの心ときたら常にいろんな妄想に取りつかれて文字通り頭が破裂しそうになっていたのだった。それは言ってしまえば、はなはだ下品な表現だがおならのようなもので積極的に(もちろん、ところを選んでという話にはなれど)放って楽になるべきだったのだ。そうして身軽になってこそまた動ける。でも想像してもらいたいのは、もし周囲が敵ばかりで皆が箸の上げ下ろしまでも口を極めて罵って、恥ずかしいとか忌まわしいとか責め立てるようなところではどうやってそうした毒素を吐き出せるというのだろう。少なくとも、ぼくはそうした思いを溜め込むしかなかったのだ。だからそうした思いはぼくの中で確実に腐り始め、腐臭を放つようになった。いまだって。

ぼくの中で溜め込まれた思いは、生乾きの洗濯物のように臭っている。あるいはそれこそうんこみたいなものだ……40の頃、ひょんなことから出会った断酒会通いを始めるようになりそこでぼくの思いや日々のエピソードを語ることを始め、そうして楽になれた。あるいは、別のミーティング(英会話や発達障害を考える会)にも参加し始めた。英語を学んだり発達障害を知ったりという目的ももちろんあるが、それよりもそこで(エゴイスティックではあるだろうけれど)ぼくは思いを語れることに意義を感じ始めた。友だちとその思いを「シェア」するのだった。

もちろんそれは有意義なことで……でも、いまなお思う。仮に、過去にそうしたコミュニティと(それこそ、みじめだった10代の頃)出会っていたらどうなっていただろう。ある種の、いま流行っている「哲学カフェ」のように。心の中にあるうんこみたいな思いを排泄する、というような場所。あるいは「使い古した」「価値のない」思いを語る場所。心のおならというかなんというか。でも、それこそ古本がそうであるように人はそれになんらかの値打ちを見出すかもしれない。いや、うんこだおならだとかいう比喩で語ってしまうとどうしたって尾籠な、きたないニュアンスがついてまわるが……そんなことを考えるとまあ、この世は不思議だとも思う。

いま、まわりにはたくさん友だち・仲間がいる。いまだって実を言うとぼくは、ぼくがこうやって書いているものにどれだけの値打ちがあるのか皆目わからない。心底落ち込んだり混乱したりしている時は、それこそなにもかも(書くものはおろか、ぼく自身の存在意義までも)ムダだクズだと思う。でも、そんなふうに無価値だと思おうが、他の方はていねいにぼくに向かい合う。ああ、それも人生なんだなと思う。

ぼく1人ではなにもできない。友がぼくにあかるい方向を指してくれる。過去、独りぼっちだった時は不安や猜疑心と戦い続けた。いま、ああ、だんだん劇的にいろんなことがひっくり返る。ゲームみたいな話だ。オセロのようにパタパタといろんなことがひっくり返る。