今日は遅番だった。今朝、三島由紀夫の『戦後日記』をパラパラと読む。これは三島が公開を前提として書き続けた日記を集成したもので、この日記の中で三島は音楽全般に対するはっきりした嫌悪もしくは恐怖について率直に、歯に衣着せぬ筆致で記している。三島の音楽ぎらいは端的に音楽が「かたち」を持たないこと、そして意味を見い出せないことからくるとつづられる。正確な引用ではないが(ごめんなさい!)、三島は音楽がどこからともなく来るものであること、そして努力しても音楽を「視る」ことができないことなどを分析してつづる。彼は音楽愛好家はマゾヒストではないかとすら書いている。
おそらく、三島は音楽によって自分の自我が支配され侵略されること(流行り言葉で言えば「精神汚染」?)を嫌ったのだろう。このいかにも三島的な繊細で鋭敏な(「過剰に」鋭敏な)知性に文字通り感服し、ぼく自身のことを身の程知らずにも振り返ってしまった。この日記を読まれる方ならもうおわかりのとおり、ぼくは音楽をずっと愛好して生きてきた。文字通り音楽がないとぼくは自分の心を平静に保つことができず、落ち着くことができないのだった。ぼくは発達障害の、落ち着かないせっかちな心の持ち主で絶えず刺激的な音楽を求める。だから日々、浴びるように音楽を聞く(たとえば、いまはぼくはドアーズを聴いている)。だから三島に言わせればぼくはマゾヒストで、音楽の愚鈍で従順な(?)奴隷だ。
三島に同意する。音楽は形を持たず、それはぼくたちをその広がりでいとも簡単に包み込む。でもぼくは音楽のそうした甘美でやわらかい支配を楽しむことができる。そして、問題は「それがどうしたのか」と考えてしまうことかもしれない。どこが悪いのかよくわからないのだ。音楽がそうしてどこからともなく来るもので、それがぼくの心をコントロールするとしても、ぼくはそれを許容できる。でも、これは三島的な考え方がまったくもって間違っているなんて話でもないと思う。いみじくも三島が語るように、三島はサディストだった(あるいはストイックだった)ということだろう。ぼくはだらしないマゾヒストなのだ。それで終わる話なのかなと思う。
そんなふうに音楽によって侵略・支配されることへの恐怖とは(ここでぼくは「音楽殺人」という言葉を思い出してしまう。三島にとって音楽を聞くことは文字通り「殺される」恐怖ですらありえたのかな、なんて?)、つまりこういうことかもしれない。ある人の中に確固としたコア(自我)があると自覚されるからこそ、それが侵略されるとかいう恐怖も芽生えうる、と。なら、ぼくのそうした鈍感さとはつまりぼくが自分の中に依然として確固とした自分自身を持っているという感覚を抱けないことからくるのかもしれない。自分自身を見つめると、ぼくの中にあるのは空虚だ。だからこそ、いつも「なにか足りない」「刺激がほしい」と思うからこそ、カタルシスを求めてうろつき音楽を聞いたりする。
ぼくは日々、もちろんこんな足りない頭を駆使してという話にはなるのだけれど、つとめて物事をロジカルに考えるようにしている。だけどこの事実を認めざるを得ない。ぼくの中にある見えざる性格・本能は(フロイトならこれを「無意識」と呼ぶのか?)いつだってぼくを圧する。この人生とはつまりはこんなふうな内なる見えざる性質を言葉にするストラッグルの謂なのかもしれない。これについて思うと、ふと黒沢清が産み落とした傑作映画『CURE』を連想する。この映画の登場人物のように、ぼくの中には常になにかが存在しそれが世界に向けてメッセージを伝達する。だが、あの映画では(言葉ですべてを説明しない黒沢清流の作風だったので、これはまったくもってぼくの類推であることを断るが)あくまで登場人物は「憎悪」「ヘイト」を伝達していたっけ。なら、ぼくは?