跳舞猫日録

Life goes on brah!

2024/02/03 BGM: 小沢健二 - 天気読み

この日記でもたびたび書いてきたけれど、ぼくは時間が空いた時はたいてい本を読むか音楽を聴くかして過ごす。でも、実際に「古典」「クラシック」と呼ばれる達成を読むようになったのは最近のことである。たとえば実はぼくは、40になるまでドストエフスキーを1作たりとも読んだことがなかったのだった。あるいは、恥を忍んでということになろうか、いまに至るも実は三島由紀夫金閣寺』を読んだことがないのである(去年『仮面の告白』を初めて読んで感動したのだから「何をか言わんや」である)。人によっては(とりわけ、厳格でマッチョな批評家体質の人は)この無知・無教養に関して「怠慢だ」「怠けてる」と言う。そうなんだろう。たしかにこの世の中にはぼくの知らない古典が山ほどある。彼らの意見からするに、この世界は実に広いという事実をあらためて噛みしめないといけないなと思う。

他の人はいったいぜんたい、どうやってそうした本を生活において探し出すというか見つけるのだろう。ぼくに関して言えばぼくは去年だったか、ジョージ・オーウェル1984年』とめぐり会った。これはたまたまぼくの住んでいる町にある古本屋で見つけたのだ。好奇心から買い求め、そしていまやこの本はぼくの部屋にある愛読書の1冊となっている(でも、実はこんな「愛読書」は100冊くらいある)。こんな感じでぼくは本を1冊ずつ、少しずつ心の中の図書館あるいはデータベースを作り上げるために読んでいる。ということなので、ぼくはたしかにナマケモノではあるけれど許してほしい。でもすでにご存知のとおり、ぼくは逆立ちしたってウンベルト・エーコ松岡正剛的な「博覧強記」「知識人」にはなれっこない。

言い換えればぼくは、人がどんな古典を読んでいないからといってもそれを以てその人が怠惰だと言ってはいけないのだ。なぜなら彼らは彼らの人生を生きているのだから。いや、これはイヤミでも皮肉でもなく真剣に言っている。彼らの態度から学ばないといけないかもしれない、とさえ思う。そういう人たちの価値観はフレッシュかもしれない(東野圭吾伊坂幸太郎恩田陸といった作家を読みこなすのだから)。すでに彼らはいち早くすばらしい、過小評価された作家を見つけ出しているという可能性もありうる。本だけにとどまらず、彼らはこの時代においてフレッシュな人生を生きている、かもしれない。

指が動くままに書き記し――そしてなぜこんな古臭いマッチョな意見を書いてしまったのかと思う。わからない。でも消せない。許していただきたい。今日、仕事終わり未来屋書店でぼくはその三島『金閣寺』を買い求めグループホームに戻った。夕食後(手作りの恵方巻をいただいた)、その三島の本を読もうとして読めなかった。疲れていたからだろう。そういうこともある。小沢健二のアルバムを聴いて1日を閉じた。