日記でも書いてきたのだけれど、16で村上春樹の小説と不意打ちのようにして出くわしてハマったとかそんなことはあったにせよ、ぼくの読書の過程はそんなにすばらしいものではないのだった。例えば、奥手なもので40になるまでぼくはドストエフスキーを一編たりとも読んだことがなかったのだからお粗末もいいところである。大学生の頃は英文学(とりわけアメリカ文学)を学ばねばならず、その一環でサリンジャーやカポーティ、ブローティガンといった作家をめくってみたこともあったかもしれない。でも、その後呪わしい飲酒生活が始まってしまい40までドロドロの生活を過ごしたのだった。その飲酒生活の間、ぼくはまったくもってなにもしなかったに等しい。
そんな10代の日々……あの洗練された都会的な「ポストモダン」な生活にずいぶん憧れたものだ。80年代や90年代、まだバブル景気がそうしたクールなライフスタイルを支えていたかもしれない時期。言い換えれば、この町の退屈な生活から逃げたかったのだった。でも、大学に入ってぼくは心の中にぽっかり穴が空いているというか、どうしたって埋めようがないスキマがあることに気づく。いったいなにをどうやっても満たされないで、欲求不満ばかりがつのる。いまならわかる。それがぼくの持つ「依存症」の性格なのだということが。
そしていまなお、心のなかに底なしの沼というか穴というか、そんな空虚が存在するのを感じる。埋めるのは無理とわかってはいる。でも、毎日本を読んだりしてストレス解消のために足掻く。それがぼくがこんな「本の虫」「活字中毒」である所以なのだろうなと思う。
その読書タイムのあと、イオンの中の未来屋書店にまた行ってしまった。そしてそこで日本の古典文学がライトノベルの棚に並んでいるのを見かける。『文豪ストレイドッグス』の影響だろう。芥川龍之介や坂口安吾、谷崎潤一郎といった作家だ。安吾の本を買い求め、そしてページをなんとなく繰る。安吾が「生きなければならない」とエッセイの中で書きつけているのが眼を引く。それはいまのぼくにも刺さった。汗をかき、カッコ悪い思いをしてでも泥臭く思われても前に進まないといけないということかな、と。いま、ぼくはさしあたって生きている。身体が温かく、実に活発に動く。こうしたことがらが、ぼくの存在がいかにすばらしいものか指し示しているのかなと思う。