跳舞猫日録

Life goes on brah!

2024/01/28 BGM: Hayden - The Closer I Get

今日は休日だった。今朝、イオンに行く。そこでぼくは、マルティン・ハイデッガーの講義録『ニーチェ』を紐解き少しだけ読んだ。もちろんこの本は泣く子も黙るあのハイデッガーの本、なので何かを意見として気軽に言えるようなやわなものではない。とても手に負えない難しいシロモノなので理解がぜんぜん追いついていない。でも、いろんなことを考えさせる本でもあるので読みながらあれこれと――たとえば「情動」と「感情」はどう違うのかについてなんて――考えてしまった。

そしてこんなことをまた考えてしまった。どうしてよりによってこんな難しい本を自由時間にわざわざ読んだりしてしまうのだろう? こんなことを思い出した。十代の頃は、すでにこの日記でも書いてきたけれど村上春樹に惹かれ、自分でも短い記事をせっせと書いたりしたのだった(本や音楽、文化などについてだ)。ある意味では、なんでもかんでもクリアに見渡して「斬って捨てる」ことができる知性にあこがれていたのだった。若かったんだなあ、といまなら思う。でも当時、ぼくはそんな感じで大きくなろうとつたないなりに(というか、バカなりに)真剣・真面目だったんだろうなとは思う。

そんな時間を過ごしたあと、スマホを見てそこである人が亡くなったという知らせを知る(Xのタイムラインでだ)。11時ごろ、図書館で本を借りる。多和田葉子『容疑者の夜行列車』を借りて、もう1冊はと探していると突然ある本がぼくの興味を惹いた。タイトルは死についての本、もっと言えば実に物騒な死についての本と謳っていた――春日武彦『自殺帳』だ。たぶんさっきの訃報の知らせが頭の中にあったからだろう。その2冊を借りてグループホームに戻った。

後者『自殺帳』を読み始め、そして過去の日々を思い返す。もちろん、語るにはとても配慮を要する難しい話題だ。書き続けてもいいなら、こう書くことにした。いまではぼくはなんとかぼく流のポジティブ思考を身につけられたかなと思っているけれど、それでも人生を投げ捨てるアイデアはひたひたとぼくの背後に忍び寄ってささやきかけることがあるのを感じる。そうした声は、すべて(この人生の重力)から解き放たれることをささやいていると感じることがある。

言い換えれば、こんなことを自分に自戒としてつぶやいてしまう。なぜこんなふうに生きているのか、ぼくには言えない。松浦寿輝『黄昏客思』という本の受け売りになるが、ぼくはこの世界における客人としてひと時世界を旅し、人生を楽しむ。それだけ、というかそれに尽きる。楽しいからぼくは生きている。ある意味では、投げ出すことは彼らが人生から逃げたということ、逃げざるをえなかったこと、そう決断したことを意味するだろう(もちろん、それを責める資格はぼくにはまったくもってない)。なら、どんなことをそんな彼らの決断から学び取り、遺産として受け継げばいいのだろうか……と考えてしまった。