跳舞猫日録

Life goes on brah!

2024/05/08 BGM: R.E.M. - World Leader Pretend

今日は休みだった。今朝、残っていた西部邁の書物『生と死、この非凡なる平凡』を読み終える。そして、なぜいまもってなお(時代はもうネットフリックスだとかYouTubeだとかいうのに)本を読みふけってしまうのか考えてしまった。そんなことを考えてしまったのはたぶんにこの本のあるトピックが興味を引いたからだ。過去、本を読むことは「精神修養」だと信じ込んでいたのを思い出した……と言えば聞こえはいいが、たぶんたんに知識をたくわえることで人を見下したかったのだ。だからつまりは、人のことが根本的に嫌いでいつだって人付き合いでムカついていたのだ。いまはどうなんだろう、と思ってしまった。

そう、この小国におけるあらゆることが嫌いで……とりわけ人が生み出す、人の世の空気・気分に振り回されてしまうことがいやでいやでしょうがなかった。とかくこの世は生きづらい、と漱石草枕』的なことをすでに10代で考えていたのだった。日記でつねづね書いてきたけれど、ぼくはまあ発達障害者なのでいまもって会話の中で文脈や共通のコードが読めない。だからイライラしたり、自分を恥じたりもする。10代の頃、そんなことになるのは他人のせいだ(つまり自分のせいではない)と信じようとして、つまりみんなアホだとか無責任だとか思い込もうとしたのだった。羊の群れみたいなもので、だからメエメエ鳴くばかり。リーダーがいて統率しないとどうしようもない、と思おうとしたのだった……と書くとなんだか大江健三郎的な世界だが。

でも、問題はそうしたことについて反省するのみにとどまらないのである。コント55号ばりに「なんでそうなるの」と考えていかないといけない。それはたぶんにぼくの認知の歪みだ。あるいは、ぼく自身にだってそうした気分や情動が存在しているに決まっているのだから(そしてそれは常に移ろうのだ……スタイル・カウンシルが歌ったように)それをどうするかだ。でたらめなことをさせたり、理屈では説明できないことをさせたりするその気分とどう向き合うか。人をバカだアホだと罵る前にぼくは、自分の人間性、あるいはそれこそ動物っぽさやでたらめさと向かい合う必要があった。そうした、小難しく言えば動物性という素因を「カワイイ」と思って肯定したらいいのか。あるいは、不可能だけれどそれでも機械のような境地を理想とすべきか。

いま、グループホームの体制が変わり管理者・副管理者の方も変わられ、前の方々も父権的な、厳しさの中に優しさが満ちた方々だったのだけれど今度の方々も信頼おける、実にすばらしい人たちだと映る。他にもぼくのまわりにはたくさんの信頼できる方々がおられる。そうした方々と語らううちに、ぼくは彼らがぼくの言葉を「読もう」「理解しよう」と耳を傾けられていると思えるようになった。そんな姿勢から、ぼくもまた世界や社会における信頼をどう取り戻すか考えるようにもなった。それはつまり、上にも書いたような「人嫌い」「人間不信」(人を根底から見下す態度)とはかけ離れたものだ。

かつて、人のことをアホだバカだと思い込み、教育によって知識を注入して一人前にさせて熟慮できる人間に育てないといけないのだと思っていた。空の瓶に飲み物を入れるような感じだ。でもいまは、人の中には尊厳や人間性が宝石のようにあらかじめ備わっているとも思う(正確には、たぶんいまもってぼくは心の中の無意識のトラウマを克服するためにそう信じようと「心がけ」て、「努力して」いる)。