跳舞猫日録

Life goes on brah!

2024/01/24 BGM: 豊田道倫 - 新宿

毎日、ぼくはメモパッドにつけている英語のメモを読み返しながらこの日記を書いている。いま、ぼくはそのメモパッドを読み返しこんなことを書いたことを認める。「ある概念、ある幻想、つまり『愛』について」……そう、ぼくはそのメモを書いた時「愛とは幻想である」なんて考えたりしたわけだ(少なくとも、昨日ぼくはそう考えたかもしれなかった)。とても抽象的……というかまったくもって現実離れしたアホくさい考えだ。だが、面白いとも思う――そして過去の痛みに満ちた日々を振り返ってみる。

過去、ぼくが十代だった頃、誰とも恋に落ちることもできずに過ごしてしまった。子供の頃というのは基本的にぼくはいじめに遭ったり、そうでなかったとしても少なくともひどく嫌われておみそにされたりしていたので、そんな「甘酸っぱい初恋」をついに経験することがなかったのだ。だからいろんな本を読み漁り、どうして恋やロマンスをそんなにストレートに、すんなり経験できないのか知ろうとした(その頃、ぼくはわかっていなかった――そんな日々のトラウマこそそんな甘美な経験を味わうことを邪魔していたのだ。本能ではもっとすんなり恋だなんだと経験したいと思っていたというのに)。

そう、ぼくが読んだ本はこんなふうに教えた。愛とは単純な話、基本的に人類が作り上げた「虚構」なのだと(たぶんだけど、「神様」と同じだ)。愛とは西欧の文化・文明によって作り上げられたもので、フローベールボヴァリー夫人』よろしくそうした概念・妄想が人をこれまで狂わせてきた。その愛はつまりそうした、海外の文化の「贈り物」「輸入品」なのだ――もちろんいまならこれは、「たしかにそう考えれば面白いけど」という次元のバカげたロジックの産物だと思う。でも当時、そんな考えになぐさめを見出していたのだった。ぼくが恋をできないのは健全な証拠なのだ、とさえ。

そして……40になり、ぼくはある賢明な方と出会い、その方と恋に落ちた(「ワンサイドラブ」、「片思い」であったにせよ)。いまぼくは理解する。他の友だちのようにぼくが素直に恋できなかった理由を。そんなトラウマに満ちた痛ましい日々は、素直にかつ篤実に本能や欲望を追い求めることを邪魔していたのだった……。

いま、その女性とぼくはいまも友だちだ。最近になって、「ぼくなりに」だけどぼくは自分で恋愛・色恋の意味を見出しつつある。それはつまり、他者に優しく・肝要になるための鍵(手がかり)なのだ。他者を受容し、ハグすること……と書いていて、なんでこんなこんがらがった難しいことを考えていたのかと思い、わからなくなってしまった。寒波がこの国に押し寄せているからこんな話になるのかもしれない。日常生活においてはそういうこともありうる。作品内で「ほら雪がふっています。どんな意味があります?」と書いたのはチェーホフだったそうだけど……。