跳舞猫日録

Life goes on brah!

2024/01/08 BGM: Donald Fagen - Snowbound

今日は遅番だった。朝目を覚まし、ぼくは窓から見えた景色に驚いてしまった。うっすらと雪が積もっていたからだ。初雪だ。さっそく写真を撮り、それをLINEやTelegramなどで友だちとシェアする。ああ、いつもながらこうした自然の美しい光景にぼくは驚きを禁じえない。心が深く動かされてしまう。

そしてまた、例によってぼくは過去のひどかった、ほんとうにみじめな日々を思い返してしまったのだった(これはもう何度も何度も書いていること、これからだって書くだろうことなので「うんざり」な方も多いだろう。ごめんなさい)。学校でろくでもないいじめに巻き込まれて、就職活動にことごとく失敗して将来への望みが完全に断たれて……そしてそれゆえに、ぼくは結局実にくだらない、みじめなヘビードリンカーになってしまったのだった。その頃、ぼくは働いてはいたけれど精神的には完全に外と隔絶して、ひきこもって暮らしていたことを思い出せる。

ある意味では、その日々においてぼくはずっと自分のせまい、ちらかった部屋にいてありったけ買い込んだビールと夢想を共に生きていた。ああ、実に、実に不毛な日々(でも、それがぼくの20代・30代である)。偉大な、かつとっても有名な、三島由紀夫村上春樹級のポップスターというかアイコンというか、とにかく圧倒的なプロの作家になりたいと思い……それがその頃のすべてだった。いま、恥とともにこのことを記す。アホだった。

そしていま……実は最近になって、このことについて考えている。いったい、ぼくの側からどうそんな人たちに向けて言葉をアドバイスとして発すべきか……つまり、自分の世界に固執して人のコメントや意見を聞かず、閉じこもってしまっている人たちに「効く」言葉といえば伝わるだろうか。もちろんデペッシュ・モードの歌よろしく「人は人だ(People Are People)」とうそぶき、ほっとくこともできる。いや、なまじあまっちょろい同情で軽はずみに動くよりはそうして「ほっとく」のも思いやりかもしれない。でも、幸か不幸かぼくはそうできない。子どもなのかなあ、と思いつつも彼らのそうした光景にぼくの過去を見てしまい、切り離せないでいるのだった。

いつものようにそんなことを英語のメモとして、朝活の一環として書く。その後、ぼくがここ最近注視・瞠目している書き手の1人である三木那由他の本『言葉の展望台』を読み返してみた。この本は実にスマートに、洗練された手つきでぼくたちの日々のコミュニケーションがどう営まれうるものか記している(とてもラブリーな本だと思う)。それはとても混沌としていて、ゆえに愛おしい。いま、ソーシャルメディア(とりわけX)で何人かの有名な(あるいは悪名高い)人が言葉を軽はずみに、乱暴に扱っているのを見る(「境界知能」という言葉をめぐる問題にそれを見てしまう)。それを見るとぼくは「いや、自分はどうだろう」と反省してしまう。どのディスプレイ、どのスマートフォンの前にも、そこには血を流し涙を流す生身の人間がいるということをいま一度思い出してしまった。