跳舞猫日録

Life goes on brah!

2023/07/12 BGM: The Beatles - Hey Jude

ぼくの部屋には100冊ほどの本があると思うのだけれど、その中に「詩集」のくくりに入る本がまったくと言っていいほど存在しないことに気づいた。というか、ぼくは日頃詩を楽しむ習慣を持っていないのだった。せいぜいポップソングの歌詞を通して詩に馴染む程度で、したがって詩の伝統的な文化・遺産へのリスペクトなんてものとは無縁に生きてきてしまっている。そんな人間がここ最近になって詩を書いているわけで、さすがにまずいと思って読めるようなら岩波文庫の『アメリカ名詩選』などのアンソロジーを読んでみようかと思い始めた。とまあこんなふうに極めて「行き当たりばったり」に進むのがぼくの人生である……最近も職場で理不尽な思いをして苦しくなったのだけれど、それでも自分の詩を書いていたらのめり込んでしまって自分のマジックポイントが回復するのを確かに感じた。実に自分はイージーにできている。世俗的な成功に背を向けつつ、コツコツと自分の詩を書き続けたい。そう思って今日も空いた時間で詩を書いてみた。そしてそれをまとめるブログを作ってみた。ぼくの知り合いにはすでに長く詩を書き続けている(いわば「先輩」にあたる)人がいる。彼を積極的に見習いたい。

wazurai.hateblo.jp

これが彼のブログである。そしてこれがぼくの詩作。

bingxiang.hatenablog.com

今日は休みだった。朝、英会話関係のミーティングにZOOMで参加する。今日は「subtle」という単語を学んだ。この単語は実に奥が深い。「かすかな」という意味があるようで、各メンバーから活発に例文が出てくる。ぼくは「rice has subtle sweet taste(お米はかすかに甘い)」という例文を作ってみた。その後「make up for(埋め合わせをする)」という言葉から例文を作ることになり、これに関しては「This Koutaro Sawaki's book will make up for the coming hard days(この沢木耕太郎の本は、これから始まる忙しい日々の埋め合わせをしてくれる)」と書いた。そして参加者の方にぼくがたまたま持っていた沢木耕太郎深夜特急』(第1巻)を見せる。インドから参加しておられた方に「あなたの国のことも出てきます」と話したところ、「英語版はありますか?」と食いついてこられて、実に向学心が旺盛な方だと唸った。その後、雑談となり誕生日をどう祝うかという話になる。ぼくの場合FacebookやLINEなどで誕生日を公開しているため、お祝いのメッセージを寄せてくれる方もたくさんおられて「オンラインパーティー」を楽しめていると言えるかもしれない。「生まれてきてくれて、出会って下さってありがとうございます」と言われたことを思い出してしまい、自分の人生にもとうとう「そんな方々」が現れたかと感慨に浸ってしまった。

昼寝をした後、明日木曜日の友だち向けのZOOMでのプレゼンテーションのための資料を作る。ここ最近になってぼくはこの自分の人生を振り返ることが増えたのだけど、今回のプレゼンでもぼくは自分自身の青春と思える日々、つまり十代だった頃の多感な日々について語ってみたくなった。子どもの頃、まだこの世には発達障害なんて概念はかけらも存在していなかった。ぼくはその頃から生きづらさに悩んで、子どもながらに「どうして死んだらいけないのだろう」と思い悩んだ……十代になってもその生きづらさは続き、何をやっても「みんなと違う」「変わってる」ことに苦悩する日々が続いた。したがって異端として排除される(平たく言えば「いじめ」に遭う)ことにもなったのである。大学に入っても発達障害が災いしてアルバイト1つ見つけられず、友だちもできず一人ぼっちで過ごしたっけ。その頃もぼくは読書をしていたはずで、ポール・オースター村上春樹を読みながら「ぼくも何か書けないか」と野心を持っていた。だが、その後(実に30年後!)自分が日記や詩作に手を染め、英語で自分の書き物を発表するようになるとは想像もできなかった。そう思うとこんなスットコドッコイな人間が今まで生き延びられたのもまさしく支援者・友だちのおかげだと思ったのだった。

夜、断酒会に参加する。そこで「困っている人にどう声かけをするか」「どこまで彼・彼女に干渉するべきか」という話を聞く。その後グループホームに戻り、詩作と『自選 谷川俊太郎詩集』の読書の合間にぼくなりにその問題について考えた。もし「死にたい」「もうだめだ」と思い、追い詰められている人を見かけたら。ぼくの知り合いには元ひきこもりの方がいる。彼がついに部屋から出られるようになるまでのライフストーリーを思い出した。彼は両親が確実に年老いるという事実に直面し、彼なりに決意を固めたのだそうだ……そこからあくまで「困っている人が『内発的』『自主的』に、自分なりに復活・再生したいと思わないと支援の意味がないのではないか」と思ってしまった。しかし、それは「周囲は何もできないんだからほっとけ」「その時が来るまで待て」という話にはならないはずだ。周囲にいるぼくたちができるのは彼・彼女が見失っていた「生きる意志」「心の灯火」を再び発火させること、そして未来を見せることではないだろうかと思う。ぼくがこうして断酒して、自殺願望もかなぐり捨てて赤っ恥をかきながら(だって、ヘタクソな詩を全世界に公開しているのだから)生きていることがこの文章の読者にとっての希望になれたら、と思ってしまう。