跳舞猫日録

Life goes on brah!

2023/08/06 BGM: Chihei Hatakeyama - Bonfire on the Field

今日は休みだった。朝、図書館に行く。そしてホルヘ・ルイス・ボルヘス『詩という仕事について』を借りる。その後イオンに行く(なんとも行動範囲の狭い生活だと自分でもあきれてしまう)。そして、そこで松下育男『これから詩を読み、書くひとのための詩の教室』を少し読む。松下育男が詩のインスピレーション、詩の言葉についてそれが「(詩の方から)来る」ものであると語っているのを読む。それはぼくの中で腑に落ちた。「待つ」……大学生の頃、ぼくは授業の一コマとして演劇についての授業を取っていたことがあるのだけれどそこで「人は待つことができる動物である」と先生がおっしゃったのを思い出す(何についての話題でそんなことをおっしゃったのか思い出せない。サミュエル・ベケットゴドーを待ちながら』ではなかったと思う)。「待つ」のはいわば何かが到来することをその「何か」任せにすることだから実に受動的な、無力感さえ感じられる営みだ。だが、こちらから常にアクティブに行動し続けるのではなく時にそうして「天運」や「自分の勘」を信じて「待つ」ということだって大事なのかもしれないと思う。ぼくも今の友だちとの出会いについてずいぶん「待った」ものだ。

「待つ」と、詩の方から「来る」こともあるということの神秘……そんなことを思いながらその読書のあと、いつものごとく詩を書こうとするもぜんぜんはかどらない。暑さが堪える……しょうがないのであきらめて未来屋書店に行く。すると新潮文庫萩原朔太郎『月に吠える』(ヨルシカが表紙を描いたもの)を見つけたのでそれを買い求める。パラパラめくってみて、朔太郎の詩がすんなり入ってくることに驚く。これまで朔太郎なんて読む気にもなれなかったからだ。というより、詩なんてまったくもって見向きもしなかったことを思い出し、あらためて自分の視野の狭さに汗顔の至りを感じる。今年は詩を読みふけってこのバグった暑さの夏を乗り越えるのもいいのかもしれない。沢木耕太郎のノンフィクション(たとえば『一瞬の夏』や『深夜特急』)を読もうかとも思っていたのだけど……音楽は畠山地平の『ミニマ・モラリア』を聴く。このタイトルからはテオドール・アドルノの有名な著作を連想してしまうのだけど、ボーナスが少しばかりでも入ればアドルノの本を買ってみるのもいいかなとも思った。裏返せばそれまであまり贅沢はできないのだった(とはいえ、文庫本を1冊買ってしまったのだけど)。これから「老い」と向き合って生きる、そんな人生の伴走者というか副操縦士になってくれる本について考える。

松下育男と、その萩原朔太郎『月に吠える』が提示している問題意識として「詩とは何か」というのがあると思った。それは裏返せば「なぜ詩を書くのか」という根源的な問いにも通じるだろう。ぼくがその質問に答える資格があるかどうかわからないけれど、仮に答えるとしたら「谷川俊太郎の詩を読んだから」「自分も詩を書けると思ったから」ということになると思う。なんだかロラン・バルトの理屈のようだ。ぼくは、過去の詩にも書いたけれど特権的な「詩人」たりえるとは思えない。これは謙虚さとかそういうのではなく本音であり、あるいはつとめて客観的に自分を捉えようとしてたどり着いた結論でもある。その意味では、実にマニュアルに沿って詩作を試みている「ポエムメーカー」(あるいはそれこそ「ポエマー」)なのかなとも思う。実にイージーだな、とも……というのは結局ぼくの書くものには「オーラ」も「華やかさ」もないからだ。単なる手づくりの品々のようなこじんまりとした魅力しかないかなと……と書いて、それは「手づくり」で心をこめて書いている人たちに対して(言わずもがなで)失礼なことだとも思った。ぼくの場合はもっと「手抜き」の「心のない」品物をポンポンと作っているのが実態かな、と。

それで昼が過ぎ、「本の蔵」に行く。そこで詩を書き始める。萩原朔太郎『月に吠える』の記述を「かじった」というかペロッと「舐めた」程度で朔太郎について詩を書くところがぼくのたわけた性格の現れである。そしてその詩がなぜかポンと「心象スケッチ」という宮澤賢治の用語とつなげられてしまったのもぼくらしく、実にスットコドッコイだなと。「本の蔵」の方とゆっくり話をできればと思ったのだけれど、ぼく自身もあたふたしていたのでお話しできずに詩だけ書いて立ち去ってしまう。今日の夜はグループホームでバーベキューがあり、美味しい肉と野菜を楽しむ。だが、夕方になっても暑く汗だくになってしまい、夜に(すでに朝に「ひとっ風呂浴びた」のだけど)シャワーを浴びようと思って横になったら立ち上がれなくなる。横になりゴロゴロしながら本を読んで時間を潰す……そんなわけで日記の英訳もできないまま終わった。この夏の暑さのせいか、48にもなるとそんな気力も失せてしまうのか。無理をしても続かないのはこれまでの人生でわかってきた(つもりな)ので、日々手堅く安打を積み重ねて打率を上げることを試みる暮らしをしたいと思った。ぼくは王貞治ベーブ・ルースのようなホームラン王になれるとも思わないので……。