跳舞猫日録

Life goes on brah!

2023/08/05 BGM: UNICORN - 働く男

今日は早番だった。昨日遅くまで仕事をしてクタクタになってしまい、そしてそのまま眠ったので朝は時間も気力もなくしたがって日記を書けない。それで仕事を何とかこなして、その後退勤後図書館に行き松下育男や荒川洋治の詩集を借り、そしてかろうじて日記を書いたら力尽きてしまい結局英訳まで手が回らなかった。「老い」はこうして忍び寄ってくるのだった……それでベッドでゴロゴロしながら松下育男のエッセイや詩集をパラパラめくって過ごす。松下育男の初期の詩がサラリーマンの生活について生々しく綴ったものであることに興味を持つ。とはいえ、ありきたりな「働きたくないでござる」というたぐいのものではなくもっと「『仕事』に自分を合わせていく、窮屈さと隣合わせの規律正しさ」といったものが綴られていることが面白いと思った。もっと読んでいかないと本腰を入れてレヴューめいたことを書くことはできないけれど、ぼくも一応は仕事をして(なんとか)自活している人間として松下育男の詩作に興味を持つ。そのようにして窮屈な社会生活が持つ「味」について書いた作家・詩人としてフランツ・カフカがいたことを思い出す。もっともカフカの場合は「働きたくないでござる」を極めてそれが『変身』『訴訟』に至ったとも言えるようにも思うのだけれど。

ぼくの場合……今の仕事に就いたのは決して「男子一生の仕事」「ライフワーク」にするつもりなどなかった。今でさえぼくは「この仕事には向いていない」と思っている。なら、どうして今の仕事に就いたのかと言えば結局大学を卒業する際に就職氷河期にぶつかってしまい、発達障害もあってどこの会社に行っても採用してもらえず最終的に郷里に帰ってきて、そして今の会社に落ち着いたのだった……その後も会社で仕事をこなしながら思っていたのは「こんなところでおれは終わらない」「いつかは書くものが誰かの目に留まるはず」「そこからビッグになれるはず」といった実に「しょーもない」夢想・妄想ばかり。そして、世の中もちろんそんなに甘いものでもないのでぜんぜんぼくが書いたものは芽が出る気配もなかったのだった。その現実をぼくは受け容れられず、悪いのは世の中で「みんな見る目がないのだ」と思い込み、虚心に「自分に才能がない」「華がない」ということを認められなかったのだった……と書いて、たぶん「自分を等身大のまま・ありのままに見つめる勇気」というのも成功するのに必要なのかなと思う。いや、ぼくは成功してはいないのだけれど……。

なんだか変な話になってしまったけれど、そんな敗北感・挫折感からぼくが酒を呑んだくれて過ごしたのは周知の通り。そして、さらに言えばそこから40になって、「自分はまだ何もしていない」「何1つ達成していない」と尻に火がついたように思ってそこから断酒を始めたのだった。その後ジョブコーチや、かけがえのない友だちと出会い……その出会いと交流を通して、ぼくは自分の書くものが好きになれるようになった。過去、実はぼくは自分のことが嫌いでしょうがなかった。自分が生きて汗をかくこと、おならをしたり食べたりすること、引いては「ここにいるというそのこと自体」が実に汚らしいことのようにも思ったのだった。そしてぼくは自分の書くものもなんだかじぶんの「廃棄物」「排泄物」のように思われて、だから書いてもそれをあっさり捨ててしまったりしたのだった。愛着など何もなく……今になってようやく、書いたものをストックすることを考えるようになった。いや、まだ詩のブログは始まったばかりだけど「ゆくゆくは1冊の本にできたらいいなあ」とさえ思えるようになったのだった。誰と比べたりすることもなく、自分の中からうまれた「かけがえのない」本として場所を与えたいと思い始めたのである……。

ここまで書いて、ふと周りを見てフェルナンド・ペソア『不安の書』があるのを見る。ペソアも勤め人だったっけ。過去、ぼくは実に自由人……と言えば聞こえはいいが要は完全な甘えん坊でそれこそ「働きたくないでござる」と思って生きていたのだった。橋本治の書いたものに感化されて地道に働くことの大事さは学んだつもりではあったけれど、でも本音は「毎日好きな時間に寝て暮らしたいなあ」と……それが、蓋を開けてみれば48になった今でも勤め人としての仕事を最低限こなし、そして余った時間に書き物をして過ごすようにもなったのだった。それこそカフカペソアみたいな話というかなんというか。いや、ぼくは引きこもる人をけなすつもりはない。そうして「働け」「社会に貢献しろ」「普通に生きろ」というプレッシャー・圧力は端的に息苦しいしクールでもないと思う。ただ、なら「引きこもりはクール」「働いたら負け」という風潮がいいのかどうか。結局、世の中いろんな生き方・行き方があっていいということなのではないか(凡庸な話になってしまうが)。ぼくはボヘミアンに憧れながら結局こんなクソ真面目な生き方をしてしまった。それはでもぼくの主観からみれば味のある「生」でもあるようにも思うのだった。