跳舞猫日録

Life goes on brah!

2023/08/04 BGM: Boards of Canada - Turquoise Hexagon Sun

今日は遅番だった。朝、図書館に行きそこで小池昌代『幼年 水の町』を借りる。その後イオンのフードコートに行き、そこで朝の時間の詩作をいつものごとく試みるも何もアイデアが出てこないのでいったんあきらめて小池昌代が編んだ『恋愛詩集』を読む。ふと、そこに載っていたヴィスワヴァ・シンボルスカの詩が面白かったのでぼくも恋愛詩を試みて書いた……のだけれど、最初の1行を書いてそこからおしりの言葉について韻を踏むことを考えてそして組み立てていくと、結果としてゴキゴキにねじれた詩になってしまった。いや、ぼくも俵万智「サラダ記念日」のようなシンプルな中に深みのある、生活感と革新性を兼ね備えたものを書きたいのだった(本気です)。今の季節なら「ビールと枝豆」で1つ書いてみたい、とも思ったり……それが書いていくにつれてツイストされた、プログレッシブ・ロックのようなものになってしまうので悲しい。きっとこれは英語から詩を組み立てていっているのが原因だと思うので、余裕がある時に日本語でまず詩を書いてそれを英訳していくやり方を戯れにやってみるのもいいのかなとも思った。何はともあれ、今日も無事に詩を書き終えてホッとする。まあ、こういう日もある。

その後、『幼年 水の町』を少し読む。この本は小池昌代が子どもの頃について書き記したエッセイ集がメインで成り立っており、彼女の記憶力の良さと観察眼の鋭さに唸らされる。思えばぼくも「メモワール(回想録)」を書きたいと意気込んで試してみて、結局続かなかったことを思い出す。この町について、そしてぼくが読んできた本・読んでいる本についていろいろ書きたいという夢はあるのだけど……結局それも「詩として」まとめるという形になるのかなと思う。いや、ソネット(14行詩)でなくてもいいわけで散文詩として「サクッと」書くのも手だろう……と書いてみて、そもそもなぜぼくはソネットを書き続けるのか考える。もっと俳句や短歌、自由詩や散文詩を「形式にとらわれず」「気ままに」書いてもいいわけだ。でも、ぼくは(とことんひねくれ者だからなのか)そうして制限がかっちり決まっている形式に沿って書いたほうが逆説的に自由に発想を膨らませられるようだ。不自由の枷の中で自由さを発揮する、という逆説。まあ、そんな詩作のやり方があってもいいのかなと思う。いつもきっちり時間を取って詩を書く。面白味も何もない、神秘性のかけらもない詩作のやり方だとあらためて考えた。

面白味も何もない……ということで言えば、たぶんぼくは才能というものも信じていない。確かに才能があるとしか思えない人、天才としか言いようがなかった人も居るだろう。ぼくが好きな詩人では『不安の書』を残したフェルナンド・ペソアが思い浮かぶ。朝に読んだヴィスワヴァ・シンボルスカの詩も清々しくて好きだし、あとはぼくが詩を描いてみたいと思い始めたきっかけとなった谷川俊太郎も好きな詩人だ。彼らにはギフテッドなものがある。でも、ぼくにはない……少なくともぼくはそう思う。そう信じすぎると「ではなぜ『凡人』のお前が書こうとするのか」「書いても時間の無駄ではないか」と追い詰めてしまうのでどこかでうぬぼれや自信は(それがはったりであるとしても)必要かもしれない。でも、ぼくとしては「自分なんて大したことないし、自分が書くものも大したことない。でも、ぼくは自分を磨く(他にやることもないから)」という心意気で書き続けたいと思っている。そうして磨いていると意外なところで「光る」こともあるのではないか。いや、わからない。でも、「生きているのはひまつぶし」にしてもその「ひまつぶし」を可能な限りぼくの思うがままに、好きなことで行いたいと思うわがままさを持っているのだった。

ここまで書いて手詰まりとなり、しょうがないので松下育男のエッセイを読む(『これから詩を読み、書くひとのための詩の教室』)。そこで「なぜ詩を書くか」というテーマについて話が出ていた。「詩というのは疑問形の文学だ」と松下育男は整理している。つまり、質問・疑問が湧いて出てくるその問いをぶつけることによって成り立つのが詩だというのが骨子になるだろう。ぼく自身もその意見には共感を抱く。子どもの頃からぼくもさまざまなことに疑問を抱き、おかしいと思ったことを自分の中で問い詰めて煮詰めていかないと気がすまなかった。いや、これはいいことばかりではない。「問わないこと」や「受け流すこと」だって大事な能力だと思う。いちいち「なぜ?」「どうして?」と問いを投げかけていては相手もくたびれるだけだ……でも、ぼくは問うことや考えることを止められなくてそして今まで来てしまった。だからこそぼくは本を読んであれこれ考え続けるのだろうし、詩という形でひらめいた疑問・アイデアを結晶させてそれを世に問う。高橋源一郎『さようなら、ギャングたち』の詩の教室に集う生徒のように、ぼくも「これがぼくだ」としか言いようのない詩を書いているだろうか。もっとも、あの作品の生徒たちの詩は決して傑作ではなかったと描写されていたのだけれど……。