この日記でも折に触れてしつこく書いてきたけれど、過去ぼくはなんのポリシーも持つこともなく実にのんべんだらりと生きていた。いや、あるいはそんなポリシーを積極的に捨ててしまって身軽に生きようと(若い時期にありがちな「勘違い」から)思っていたとも思う。過去、ヘビードリンカーだった時代が長かったのでもう「呑むこと」以外のことを考えられなかったりもした。実につらい時期だった。そして、当時聞きかじったかななめ読みしたかで知った「真実は複数ある。人の数だけある。だから統一した原則にしばられず柔軟に生きないといけない」とかいうような無責任な言葉にノセられたりもしたのだった。
専門的に哲学や思想を学んだ記憶はこれっぽっちもないので、ぼくが語れるのはしたがって「ぼくがどう生きたか」という次元の実に幼稚なライフヒストリー(実体験)からになる。だから他人に説得力を以て伝えられるような明確に言葉になる証拠も何もなく、理屈にならない実感だけを振り回してしまうことになるけれど、それでもぼくは人は何か信じられるもの、信念がないといけないと信じる。言葉になるものでなくたっていい。専門的なイデオロギーだとかそんなものでなくたっていい(ぼくだってイデオロギーなんか持っていない。卑近な話をすると、このどうしたって女性のセクシーさに惹かれるエッチな情念・妄念がなんらかの「崇高な」イデオロギーになったりしてたまるかとさえ思う)。
ただぼくはこの身体がささやくメッセージを体感し、それに基づいていろんなことを決めている。ブルース・リー的な「考えるな、感じるんだ」というやつだ。ただもちろん、社会の明確なルールに背いてまでそんな感覚に殉じたりは(それこそ原則として)ない。だからぼくは飲酒運転も万引きも、その他あらゆる犯罪も犯したくない。だけど、つねにぼくはこの「軋み」「歪み」と向き合わないと行けないのかなと思う。実感と外部の世界の求めるもののあいだにある感覚。時には「則天去私」を思い出したりしつつ。
それはそうと……午後、昼寝をしてぼくなりに脳を休めたあと町にある公園で藤棚の開花を見て楽しみ、眼福を味わった。そこでこんなことを考えた。過去、学生時代にアホなイデオロギーに染まりアナーキストを気取ったりしていた時期、外にある貴重な美にまったくもって興味を感じずそれこそ漫然と過ごしていたりした。本ばかり読みふけって……もちろん、本は叡智の結晶であるだろう。偉大な遺産であることは間違いない。でも、同時にこの世界には他にもたくさんの富がある。生きる価値もそれにしたがって見つけられる……かもしれない(議論の余地があるかな?)。
これはぼくが勝手に見つけたというかでっち上げたポリシーになるが(だから本に書かれたことから思いついたわけではない、幼稚な皮膚感覚の産物になる)、ぼくはアートを味わう。だが、この世界の謎めいた、神秘的な自然のアートもまた味わい深いとも思う。そうしたアートに触れると、気取って言えば「包まれている」「ハグされている」気持ちになる。それこそ、この世界それ自体に。