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inujin.hatenablog.com
年を取るってどういうことだろう、中年になるとはどういうことだろう、と思う。
phaさん、そしていぬじんさんのブログエントリを読んでいて思ったのは、率直に「うらやましいな」ということだった。というのは、ぼくは本気で、腑に落ちて「勝つ」ということがどういうことを意味するのか、虚心にエントリを読んでも自分自身の人生を振り返ってみてもまったくもってわからないというかぜんぜん理解できないからだ。もちろん、ありていに言えば収入が人より多かったりモテたりその他なんらかのステータスとなりうるものをたくさん獲得できたら「勝つ」ことになるのかなと「想像」はつく。そして、いぬじんさんはそこから降りて自分だけのゲームで、自分の美学に殉じて生きることを選ばれたのかな、と。でも、それでもなおそこに「勝ち負け」が生じるのはなぜなんだろうか。わからないし、可能でありうる答えを思いついたとしてもそれはぼくの場合「想像」の領域を出ない。ぼくはそんな感じで人と比べて「勝ち負け」のゲームを楽しんだりその上で「生まじめな戯れ」(西部邁)に興じたりすることがまったくもってできなかった。その代わりあったのは「生まれてきた時点で負けた」な自己否定ばかりだった。
これはたぶんにぼくが発達障害者として生まれ落ちて、生きづらい思いをありったけ背負うしかなかったから「もう来世に期待しよう」「だめだこりゃ」と10代の時点であきらめるしかなかったというところからも来るのかもしれない。だから20代に入って30代になって……と人が一般的に青春というか人生における初夏を謳歌する時期に、ぼくはこれといってたいしたことは何もしないで毎日毎日「ちくしょう」「ふざけるな」とうらみつらみ(ルサンチマン)を募らせて酒ばかり呑んで、本も読まずただのんべんだらりと過ごしていた。これはまあ、いつも日記で書いていることだ。でも、その後40になり酒を止める必要に駆られて「まだ自分は何ひとつ成し遂げていないじゃないか」と本気で悔しく思ってから、一念発起して断酒に踏み切った。その後いまのジョブコーチや友だちとの出会いがあり、その出会いが縁で地元の国際交流協会とつながらせてもらい英会話を学び始め、同時にDiscordを使い始めてその縁で英会話をイチから学び直すことにした。そんなこんながあって英語で日記を書き始め、いまに至っているのである。おかしな人生だと思う。
いま、ぼくは48になる。この歳になる前はこの年齢に関して「不惑」「不動」というイメージがあった。ささいなことに動じることなく、自分の中にたしかな指針となりうるものがあってそれに基づいて・準じて生きられているというイメージだ。でも、なってみて思うのはいまだぼくは戸惑ったり揺れ動いたりしていて、ぜんぜん落ち着いていない。いまだ性的なことがらに悶々としたり(失礼!)、それ以外にも好きな作家のリリースに心ときめかせたり、自分より年若のユーザーからたくさんのことを教えられたりとそんな感じで日々なんだかんだであっちこっち関心が移ろうのを感じる。この性分はそれこそ発達障害とも関係があるのだろう。それこそ「死ななきゃ治らない」たぐいの性格・特性なんだろうなとあきらめるしかない。そして、結論めいたことを言えばそんな感じで「どうあがいたってあこがれに至らない・達しえない自分」がここに・たしかに存在することを受け入れて生きることこそがぼくにとって「中年」「老年」を生きることなんだろうかとも思うのだった。そうすれば自分の老いもまた楽し……とも思うのだが、どう映るだろうか。
ぼく自身が考える「老いを生きるための本」いくつか。
十河進という書き手の本は40代はじめぐらいのころだったか、Twitterのタイムラインから知った。爾来、彼の分厚いコラム集を買い求め自分自身が老いを感じ自分のセンス・生き様に自信を持てなくなった時に読み返すようになる。50代に入ってから連載されたこれらのコラムに、ぼくは自分なりに畏敬の念を抱く。褒め言葉としては聞こえないかもしれないが、小市民的な良識とたしかな審美眼に貫かれた好エッセイと思う。こちらは大岡昇平が自身の老年に書き記した公開日記。キャリアから俯瞰すれば「晩年」の仕事ということになるだろう。だが、良くも悪くもこの日記からは「枯れた」風情が感じられないとぼくには映る。文学を精力的に論じ、その他映画や音楽やさまざまな文化の精華に触れる好奇心旺盛な大岡の姿勢が必然的にもたらす「雑多」「ごたまぜ」な日記のこの厚み。ぼくもあやかりたいと思う(逆立ちしたって無理だが)。20代の頃だっただろうかはじめて読み、老年にもかかわらず児戯的に異性を漁り、意識不明の女性のとなりで感慨にふける男性の悲しみ(いやもちろん、いまの眼からすればなんとも身勝手なものだが)を赤裸々につづったその内容に文字通り言葉を失った。共感はしないが、ぼくもいずれ自分自身にのしかかる老いとその肉体の内部でいまだうごめく若さの名残をひしひしと感じ、メランコリーを感じるのかなと思う。これは40になるころに読んだ。こちらもまた男臭いが、日々の生活を些事までふくめて飾らず気取らず、平たい文体でていねいに書き記すその開放感あふれる作風は実に魅力的だ。内向の世代の1人とあり、たしかにこの作品に限って言えば自分自身の半径数メートルで完結する生活を描いたものではある。だが、その個人的な生活を切り取る筆致は同時にぼくたちにとって大事な普遍的な何かを照らすと信じる。これは完全なぼく自身の趣味。西部邁の書くものを読むようになり、彼や福田恆存などの保守思想家が説いた「伝統」の重みをさいきんぼくなりに考え直す日々が続いている。ぼくも50代を迎え、そうした「伝統」と無縁に好き勝手に生きてきたにもかかわらず、いまはそんな日本の文化圏・日本語の概念の豊かなソースの中で自分がはぐくまれてきたのだなとその事実に端的に「震撼」してしまっている……。