今朝、ぼくは2つの「加齢」「中年」に関する興味深いブログ記事を読み、ぼく自身のことを振り返ってしまった。この日記でも書いてきたけれど、今年でぼくは49になる(夏目漱石はこの年齢で亡くなったことを思い出し、もちろんまったくもっておこがましいのだけれど、自分の凡才に途方に暮れる)。すでにぜんぜん若くないというこの事実をどう受け入れたらいいのか。どうやってこの加齢を適切に受け留め、この時の流れについていくべきなのか。文学における数々の綺羅星のような傑作群を思い起こす。そうした作品はこの「加齢」「老い」とも向き合っていたことを……記憶から掘り起こせるのはぼくの場合、川端康成『眠れる美女』『山の音』やナボコフ『ロリータ』(意外、というか「あんたバカァ?」と言われるかもしれないがぼくはこの作品を「中年男」「初老の男」の恋の物語と読んできた。読み返すべきかな)。
こんなことをひとくさり考えたあと、三島由紀夫の不朽の名作『仮面の告白』を読み始める。過去、ぼくは自分がどんなことを考えていたか思い出してしまった。若かりし頃、ぼくはこの三島の傑作の価値がまったくもって理解できなかった。たしかに絢爛豪華ということくらいはわかったが、それ以上没入できず「やはりブンガクは難しい」と思って逃げてしまったっけ。いま思うとこの三島の作品はとてもフレッシュで、かつ狡知に長けたところがあるのでぼくのようなナマケモノにはむずかしいところもあるかなとも思う。三島は20代でこの作品を記した(と聞いている)。ゆえの若さがあり、しかしその若さが「若書き」「若気の至り」ではありえない凄味を醸し出しているところが素晴らしいのかなと思う。
その三島やぼくが常にあこがれてきた「兄貴」的存在である村上春樹についても思い出してしまい……いったいなにを書くべきか、彼らはそのキャリア・人生においてつかむことができた幸福な作家たちだ。ぼくが自分自身のことを書かんとあれこれ悪戦苦闘していたワナビ(作家志望者)だった頃、そうしたミッションを見つけて彼らがつかんだ真実を作品に昇華させている幸福な書き手たちに実に満身で嫉妬を覚えた。いまならわかるのだが、ぼくはまず自分自身の中に自信や自尊感情をはぐくむべきだったのだ。そうしたメンタルな核となる自尊感情があってこそ、実際にぼくは実地で恥をかいて作品を書き記す苦行を耐えることができる。いや、そうして耐え抜いて書いたものとて駄作で終わる可能性は相当に高いにせよ。
10代のあの頃、春樹の偉大な、文字通り汗の匂いのしない洗練されたワンダーランドにあこがれたっけ。そこではベタベタした人間関係とは無縁の「つかず離れず」な空気感が魅力を醸し出していたと思う(ああ、こんな世界に生きたい……とさえ思ったりした)。でも、いま48にもなって思うのはむしろ近しいアタッチメントというかつながりというか、そうしたくっつき方のコツをつかむことが大事かなということだ。ぼくは文学の批評家でもなんでもないただのトーシロだが、さまざまな傑作とはそうした書き手がどう人生を生きるか、コツを平たく紐解いて書き記した結晶と受け取る。そのコツの中にはそうした「生き方」「ライフハック」(その中には「加齢をどう受け容れるか」も含むだろう)があると信じる。