いまや、インターネットや現実世界においてぼくたちは数え切れないほどの、星の数ほどの(無限とも思える)グループやコミュニティに囲まれて生きている。ぼくの場合、ぼくは実際に自分でもあきれるほどたくさんのグループに入ってそこで自分の興味関心や好奇心を満足させている。たとえばぼくは断酒会に入会させてもらい、そこで断酒の動機づけを体得している。あるいは発達障害を考える会や英会話教室のコネクション。そしてそれらに加えて、ぼくはDiscordやMeWeなどで文学、哲学、政治といった「堅い」問題を論じるグループに入ってみるかたわらざっくばらんなおしゃべりを楽しむグループにも入り、そこでストレスを発散し心を開放している。
ある意味ではぼくは、自分の中にさまざまな、R・D・レイン的な表現を使えば「引き裂かれた」性格というかアイデンティティがあることを自覚する。アルコール依存症だったり、発達障害者だったり、村上春樹やウィトゲンシュタインを(どこまでわかっているかは別としても)こよなく愛する本の虫だったり、あるいは英語学習者だったりと。もしかしたら人はぼくのことを左翼と言うのかもしれないし、時代遅れの音楽ファンと呼ぶのかもしれない。と言ったことを考えると、ぼくは自分の中に多動というか実にせっかちでせわしない要素があることを自覚する。いつも心の声がささやくまま、そそのかすままにあっちこっち動き回っている。だからもしかしたら真剣・生真面目な人から見ればぼくの態度は無責任だとか優柔不断だとかいった感じなのだろうとも思う。腰を据えて1つのことをじっくり学ぶべきだ、と。でも、こればかりはしょうがない。スペシャリストというか専門家にはなれっこないので、結局はいろんなことに半可通なまま、半人前のトーシロのままで終わるのかなと思う。
というのは文化的なアイデンティティの話だが、人間性というか平たく言うとぼくの性格はどうだろう。人はぼくのことを時に真面目だとか語るし、そうかというとただのアホだとか変態だとか言って忌み嫌う人だっていたりもする。昔はそういう他人の冷酷無比な評価にいちいち傷つき、ゆえに自分のおこないを逐一、細かいところまで反省することを試みた。あまりにも偏執的に反省したのでそれこそ偏執狂というかパラノイアというか、「みんなが悪口を言っている」と思い込むところまで行きそうになったりもしたのだった。それが30代の頃のことだ。
いま、たぶんだけどぼくはある種「折衷主義」というか「中庸」の美学を身につけられてきているのではないかと自負する。もちろん完全にではない(そんな境地を完全にマスターするのは一生かけても無理かなとも思う)。言い換えれば、ぼくは折衷主義のポジションを見つけようとあがいて日々取り組んでいる(政治に関しては特に)。だから、たとえば村上春樹やベンヤミンの散文を読んだりウィトゲンシュタインを読んだり、西部邁を読んだりあれこれ手を伸ばす。
今日、仕事が終わったあとレナード・コーエンを聴きつつ、チャールズ・ブコウスキー『くそったれ! 少年時代』の続きを半ばまで読む。すでに書いたが、ブコウスキーの書きぶりはぬくもりがあり安らぎを与えてくれる(でも、その一方でたしかな「どぎつい」毒もあり中毒性も含まれていると感じる)。自問自答する。ブコウスキーはいまなお日本でも読まれるカリスマであるのか、それとも人によっては時代遅れのペーパーバック・ライターなのか……ブコウスキーが聞いたら「大きなお世話だ、バカヤロー!」と一喝されそうな話だが。