跳舞猫日録

Life goes on brah!

2023/10/12 BGM: Tears For Fears - Sowing The Seeds Of Love

(今日は趣を変えます。マーコ・スタンリー・フォッグという、ぼくの好きなポール・オースターの小説『ムーン・パレス』の主人公に宛てた手紙という形で書きます。そうしないと文字通り手が止まって何も書けなくなってしまうので……)

マーコ様。お元気ですか。こちらは平穏無事な日々が続いています。いま、ぼくが気になっている話題としてイスラエルパレスチナをめぐる問題があります。Xでこんな書き込みを見つけました。彼の地にしぶとく住み、生活を堅実に営む人の話題です。この書き込みをシェアされた新土さんという方はガザ地区空爆に反対してハンガー・ストライキを行っておられます。ぼくはこうしたハンガー・ストライキの有効性についてまったくわかりません。ですが、生半可な覚悟でできることではないのは確かなことなのでただ頭が下がるというか、敬意を感じます。そして、「ぼく自身にできること」を探したく思うのです……そこで前々からこの問題について研究し発言してきた書き手・岡真理の著作『ガザに地下鉄が走る日』に取り組んでいます。もちろん読書で空爆が防げるわけもないのですが、それでもそうして「知る」努力をすること、そこから「学ぶ」ことや「考える」ことを止めたくありません。そして、日本という島国、これまで侵略に見舞われたこともなく総体的に平和・平穏に暮らせる国に生まれ育った僥倖について考えてしまいます。こんな言葉を使うとあなたは怒るかもしれませんが、こうして「どこで生まれ育った」ということにも一種の「ガチャ」的な「不平等・非合理」を感じさえします。


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「ガチャ」「不平等・非合理」……これに関して思うと、あなたのことやぼくのことを思い出してしまうのです。というのはあなたは過去、『ムーン・パレス』で記された青春の日々の中で自分が父を知らない私生児として生まれ育ったこと、ゆえに孤独を噛みしめて生きなくてはならなかったことをつぶさに語っておられたからです。言わずもがなですが、ぼくたちは「生まれ」を選ぶことなどできません。ぼくにしたって同じです。ぼくも実にバチあたりな人間だったので「なんでこんな田舎町で生きなくてはならないんだろう」「なんでダッサダサの日本人なんだろう」なんて考えたりしてしまいました(もちろんぼくが一生向き合うべき「発達障害」についてもです)。あなたはその父を知らない悲しみを抱えて生きたこと、そして理解者たる人物を亡くしたことから一気に先の見えない、無謀な貧乏ぐらしに明け暮れしまいにホームレスとなり死ぬ寸前まで行ってしまいます。あわや死ぬ、というところで……いや、これは『ムーン・パレス』の感動的な場面の1つなのでまだ読んでいない人の興を削ぐことはしない方がいいですね。ぼくも腐った日々、絶望の日々を生きていてその後友だちと運命的な出会いをして、そしていまの穏やかな日々に至ります。そんなことを思うと、「生まれ」は選べなくとも「それでも生きること」「希望を持つこと」は決してナメてはいけないとも思います。

そして、ぼく自身の人生について考えてしまいます……こんなふうに「いま」ぼくは(ある意味「安易に」)「それでも生きること」が大事と書いてしまいます。ですがそうして「希望を持つこと」はどこか「恵まれた者」の特権ではないかとも思ってしまうのです。これは難しい話ではありません。まさに「いま」、文字通り衣食住まで失いかねないさんざんな目に遭ってひもじい思い・心細い思いをして生きている人に対してぼくが「希望を!」「生きていればいいこともあります」なんて言うことがどれだけ残酷・無神経なことなのか、ぼくはわかっているつもりです(ぼくも発達障害のことがわかって目の前が真っ暗になっていた時、そしてそれが嵩じて自殺未遂まで考えた時期にそうした励ましに出くわして文字通り「落胆」「絶望」した記憶があるからです)。でも、だったらぼくは「無力だ」「何もしないほうがいいだろう。『触らぬ神に祟りなし』だ」と決め込んで冷笑主義に走るべきなのでしょうか。もちろんそれも違います。というか、違うと信じます。いま、どうしたらこの問題にうまく関われるか……そんなことが関心としてあります。マーコ、あなたならこの問題をどう語られますか?

思い起こせばいまから30年前、ぼくはあなたが語り部としてあなた自身の青春時代の彷徨を振り返った作品、あの『ムーン・パレス』を初めて読みました。それからいまに至るまで、「いつも」「肌身離さず」というわけではないにせよ折に触れて『ムーン・パレス』を読み返してきました……あの当時、ぼくはどこかで「自分は孤独だ」と信じ、「友だちなんかいなくてもいい」「『連帯』なんてきれいごとを言うな。人は1人で生きるべきだ」と思い込もうと必死でした。それこそマーコ、あなたが(口はばったい言い方になりますが)自分を貧乏生活・断食生活の果てに追い込んで自滅していってそのどん詰まりにたどり着いたように、です。でもいまは違います。ぼくはいまは「連帯」あるいは「つながり」の可能性を信じます。人が人と触れ合うことの可能性を信じます。だからといって他人にたやすく「信じろ」などと強制することもしたくありませんが……これについて考えると難しい、こみいった理屈しか出てきそうにありません。ぼくとしては「かつて、『孤独の果て』『絶望の果て』を見た者」から言えること・書けることを書いていきたいと思っています。それがさしあたって「ぼくにできること」の1つ、だと信じたいのです。マーコ、あなたならどうおっしゃるでしょうか?