今日は早番だった。朝、仕事前に近所のイオンの文具コーナーで原稿用紙を買った。これは前に書いたグレゴリー・ケズナジャットの小説の登場人物の行動を真似てのことだ。昼休み、「満を持して」その原稿用紙にアイデアを書いてみたくなる。でも、いざ書こうとなるといったい何を書いていいかわからなくなってくる。「ぼくは」と戯れに書いてみて、その「ぼく」という言葉がこのぼくを指し示すということが不思議に思えてきて、そんな細かなことでつっかえるものだからぜんぜん書けない。「最近ぼくは」と書くべきか「ぼくは最近」と書くべきか、そんな些末なことが気になってくる。結局昼休みはいつものように英語でメモを書くだけに留めてしまった。いやそもそも、プロの作家だってスマートフォンで執筆する時代にどうして原稿用紙にわざわざペンで書くなんてことを選んでしまうのか自分にはわからない。これが発達障害特有の向こう見ずというか無計画というか、衝動的に動く特性なのである……結局仕事が終わってグループホームに帰って、そして食卓のテーブルの上に原稿用紙を広げて書き始めた。5枚書いたのだけれど、それは「書きすぎ」だと気づいたのでこれからはともあれ3枚書いてみてそれを英語にも翻訳できればいいかなと思い始めた。
思い出した! 朝、そのグレゴリー・ケズナジャットが書いたエッセイを読んだのだった。一人称(つまり「ぼく」や「私」といった自分を指し示す言葉)についてで、読みながらぼく自身が「ぼく」という言葉を使っているそのクセというか習慣について、大事なことを教えてくれるエッセイのように思った。過去、ぼくは「僕」という一人称を使っていた。これは村上春樹の小説(とりわけ80年代の作品)をぼくなりに読み込んだ影響だと思う。どうしてもぼくは「おれ」や「私」という一人称を使うことができなかった(たぶんいまでもぼくは「おれはね……」とは言えないと思う。「言わない」のではない。生理的にしっくりこないから「言えない」のだ)。その後いろいろあって、いまはこのひらがなでの「ぼく」を使っている。ひらがなに開いた「ぼく」(どこかとぼけた印象を与える)は、スタイリッシュにまとまった漢字の「僕」(生真面目で実直な、「スキのない」印象を与える)よりも自分自身に馴染むように思う。田中小実昌や植草甚一を思い出させるこの「ぼく」。でも、また「僕」という一人称に戻していくのもありなのかもしれない。あるいは、それこそカタカナで「ボクは」と書くのもありなのかもしれない。平沢進の曲の歌詞を連想する。あるいはそれこそ矢沢永吉ばりに自分の名前を一人称にするとか。gendai.media
話を戻すと、おかしなもので昼休みはそんなふうにつっかえてまったくもってわけがわからない問題にぶち当たって、それで結局書けなかったのだけれど夕方に仕事が終わってグループホームに戻ってそして食事を摂り、その後あらためて書き始めると今度はうまくいった。コロコロ気分が変わってしまうのが発達障害の悲しい性で、この散文にタイトルをつけるにあたって「MIND THE GAP」と名付けてしまった。これはもともとはくるりの曲の題名から採ったのだけれど、直訳すると「ギャップ(つまりスキマ)に気をつけて」という意味になる。ぼく自身、言葉を使うにあたっていつも細かな「スキマ」が気になる。ある意味ではそんな「スキマ」を気にしない鈍感力を身につけることが語学が上達するコツなのかもしれない。たとえば「原稿用紙」について、これを英語にするのは極めて難しい。海外にそんな用紙があるのかどうか、ぼくにはわからない。ここに「ギャップ」というか、自分の国と海外との「ギャップ」を見出してしまう。そんな「ギャップ」に「気をつけて」、何とかやり過ごす。そんなことをタイトルに込められたらいいなと思った(ちなみにぼくなら英語で話す時は「原稿用紙というのは、あー、『ジャパニーズ・ライティング・ペーパー・フォー・アーティクルズ』で……」なんてテキトーに表現する)。それで時間が空いたので、夜に阿部和重『アメリカの夜』を少しかじる。阿部和重がこの作品の中で、きわめて生真面目かつ愚直に自分自身について観察してそこから「書く自分」と「書かれる自分」の分裂を生きていることを再発見する。といっても難しい話ではない。いま、これを書いているぼくはパソコンの前に座ってじっと静かに(そして頭の中ではあれこれせわしなく考えて)文字を書く。でもそこで書かれる話とは、そんな「パソコンの前に座っているぼく」を離れた話だ。それこそ上に書いてきた話をなぞれば「イオンで原稿用紙を買うぼく」の話のように。そこでは「書かれる話」と「それを書くぼく」は分離している……いや、そんなことをいちいち考えていたら何も書けなくなるのだけれど、それでも阿部和重のようにきわめて鋭いカンを持つ人というのはそんな飛躍に我慢がならないのだろうと思う。ぼくの中にいったいどんなぼくがいて、そしてこの文ならこの文を書くようにけしかけるのか。多彩なぼくがいるのなら、あえて現代思想めいた言い方をすればこのぼくとはそんな「多彩なぼく」がせめぎあい「闘争」する場ではないのか……なんだか今日は終始むずかしい話になってしまった。わかりにくかったとしたらそれはひとえにぼくの考えが煮詰まっていないからである。もっと「じっくりコトコト」考えたい。