跳舞猫日録

Life goes on brah!

2023/09/21 BGM: The Blue Hearts - 情熱の薔薇

いますぐ読めるというわけではないのだけれど、阿部和重の初期の作品を読み返したくなった。『アメリカの夜』や『インディヴィジュアル・プロジェクション』、『ニッポニアニッポン』などだ。というのは、そうした彼の作品はこの自分自身の持つ主観(ひらたく言えば「自分自身がこの世界をどう捉えているか」)と世界そのもののズレをテーマにしていると読んできたからだ。それで、今日は休みだったので図書館に行って阿部和重の本を探したのだけれど『インディヴィジュアル・プロジェクション』はもう所蔵されていなかった。たぶんあまり読まれないからだろう(実にもったいないことだけど)。しょうがないので多和田葉子アメリカ 非道の大陸』を借りる。その後、イオンに行き読みかけていた沢木耕太郎『246』を読み終える。姫路の図書館(やすとみ分館)にも行って期限切れの本を返そうと思ったのだけれど、図書館は整理休館だと気づいてそれであきらめた。ネタを割らない程度に書くと『インディヴィジュアル・プロジェクション』はさっきも書いたとおり「この自分の認知の歪み」を描いた話なのだけれど、ぼく自身もまたそうした「歪み」に自覚的にならざるをえないからそんな話が気になってしまうのかもしれないと思った。

ぼく自身、大げさかなとも思うけれどそれでも自分自身が少しずつ狂っていくのではないかと思うことがある。職場では相変わらず使えない、わけがわからない人と思われているようでそれはそれでもう慣れたのだけれど、その一方でこないだとある信頼できる方から「自分をそこまで卑下するのはよくないよ」と仕事中に言われたのだった。かと思えば、Discordで英語でチャットしたりプライベートでLINEで連絡を取り合ったりしている方からは篤実な人と思われているようで、実に180度評価が異なっている。こないだも職場で「すみません。おっしゃることがどうしても呑み込めないのでジョブコーチを交えて、その話を含めたいろんなことについて相談することできますか」ととうとうぼく自身が持ち出す始末となってしまい、相手の方が「私たちのことを信頼していないの?」とあやしげに思ったようだった……もちろんぼくは「いまの会社はこんなにもブラック企業だ!」とかそんな話をしたいわけではないので誤解しないでほしい。ぼくはただ、「もうこの時代は『何が正しいのか』がまったくもって見えなくなってきたな」と思い始めたのだった。いま世間を揺るがせているビッグモーターやジャニーズの話、あるいはこれから公開されるというなすびに関するドキュメンタリー(『懸賞生活』で一躍「時の人」となり、いまでも俳優として活躍されているあの方です)にしてもそうだろう。遡れば「ポスト・トゥルース」なんて言葉もあったけれど。いや、ビッグモーターもジャニーズもぼくの立場では「聞きかじったこと」をきわめて無責任にしか語れない。だけどぼくのことを話すと、前に高校時代の元クラスメイトに「いまでもぼくは過去の暗かった時代を思い出してしまう」と話したことがある。「あの時代は(おみそにされて)ほんとうにつらかった」と。すると「誰だって思い出したくないことはあるものだよ」「がんばれ!」とかわされてしまった。まさに「絶句」してしまった……いや、これも相手を薄情だとなじりたいわけではない。そういうかたちで話が通じないことというのは往々にしてあるものだ。でもそこでも「独善」「独断」に至り盲目になってしまう陥穽・困難に陥らず相手と折衝していくことが大事だなとも思い始めている。そんな気持ちがあるからこそぼくは英語を学ぶことをやめられないし、読書だって続けてしまう。柄谷行人の難しい本を読もうとするし、夏目漱石村上春樹片岡義男に吸引されてしまう。あるいは、ぼくが多感な青春あるいは人格形成の時期を過ごした90年代に「トラウマを語ること」(アダルトチルドレンや虐待から来る多重人格などがテーマとして流行ったこと)が思い出されてくる。だがこれも、「聞きかじったこと」程度しか語れない。ともあれ、気になったので『インディヴィジュアル・プロジェクション』は近々読み返したい。今日はそんな感じであれこれやっているうちに夜になり、ZOOMでミーティングに参加してそこでぼくの住む市をどう海外の人に知らしめるか(観光客を呼ぶか)という話で盛り上がった。それで、やはりこのご時世SNSなどを使って知らしめるのが有効ではないかという話を(ChatGPTからはじき出した結果などを使いつつ)する。ぼくが「この市もYouTubeのチャンネルを持っているみたいですね」と調べた結果を教えたりする。ただ、その市のチャンネルは英語に対応していないみたいだった。この時代においてあらためて「英語を使うこと」は重要なのかもしれないと思い始める。参加者の方からもぼくの英語力を信頼されていることが伝わってきて、もちろん言うまでもなくありがたかったのだけれど、あらためて会社でぜんぜん英語なんて使わないこと……いや、そもそもぼくの英語力なんて会社ではこれっぽっちも評価もされていない(個人的なメモを書く時に使うのが関の山)ことに、大げさではなくほんとうに「気が狂いそう」になる。逆に言えば、そんな「気が狂いそう」な評価のブレ/ズレを生きるぼくだからこそ面白いものが書けるのだろうかとも思い始める。そんなことを、今日の散文詩で書いてみた……と書いて、もしかしたらみんなそんなブレ/ズレの真っ只中を生きていてタフネスを「とっくの昔に」身につけているなんてこともありうるのかなとも思う。リアルとネットの使い分け、「公」と「私」の使い分けなど、あれこれ考えた。
bingxiang.hatenablog.com