跳舞猫日録

Life goes on brah!

2023/06/12 BGM: スチャダラパー - ジゴロ7

今度の日曜日、発達障害を考えるミーティングを行うことになった。ZOOMを使ってオンラインで行うことになる。これは発達障害とは直接関係はないトピックになるのだけれど、ぼくはそこで「英語学習を通してぼく自身が学んできたこと」について話せればと思った。実際にぼくはclubhouseを通してインドネシアアメリカの友だちと英語で話をしたり、Facebookで熱心にコメントを下さるロシアの方と英語でやり取りしたりする。それ以外にもDiscordで英語で自分の意見を発表したり、あるいはオンラインでのサロンに通うようになったりオフで町内で行われている英会話教室に通ったりして英語を学んでいる……と書いてみて自分でも「これは『やりすぎ』ではないか」と呆れてしまうが、ここまで「やりすぎ」なつながりを求めてしまうのも多分に子どもの頃に満足に友だちを作れなかったその名残りがあるのだろう。何はともあれ、そうして英語でいろいろな学びを得ていることをシェアできればいいなと思ったのだった。今、ぼくにはたくさんの友だちがいる。彼らとのやり取りが多くを学ばせてくれることを重畳なことと思い、これからも英語を学んでいきたいと思う。

施光恒『英語化は愚民化』のことがまだ引っかかっている。タイトルから胡散臭い本と決めてかかっていたのだけれど、読み終えてなかなかナメてはいけない大事な視点を授けてくれる1冊だと思うようになった。この本が提案するのは「英語なんて勉強するな」ということではなく、「英語を公用語にするのは愚策でしかない」「日本語で考えることの大事さにも目を向けるべきだ」ということだとぼくは受け取る。そして、ぼくも賛同する。だがその上で、ぼくはそれでもなお英語を学び続けたいと思う。ぼくにとってはそうして英語を学ぶことを通してこそ日本語の大事さに思い至ることができると思っているからだ。ぼくは「日本語は非論理的だ」という意見に与しない。もし日本語がそんなあいまいな言語だとするなら、どうして村上春樹の文学が世界で読まれる強度を持ち続けられているだろうか。ぼくはこうした事柄に詳しくないけれど、日本語も英語もその中でねばり強く考えることはできると思う。ぼくはこれに関しては自分なりに真面目かつ誠実にありたい。

LINEでとある友だちから「生きがい」について話をされた。彼はその「生きがい」を見失ってしまって苦しんでいるようだった……これをぼくは大事な問題として受け止めたいと思う。そして、ぼく自身の「生きがい」について考えたのだった。過去、つまりぼくが20代・30代だった頃にぼくはその「生きがい」を失くしてしまって、毎日「もうこんな人生を生きていく理由も意味もない」「何もかもうんざりだ」と思っていた……そして大量飲酒に耽り、死を夢見たのだった。今、ぼくは上に書いてきたような英語学習に自分の「生きがい」を見い出せていると思っている。語学を学ぶ旅路に終わりはない。日々新しい発見があり学びがある。それがぼくの「生きがい」だ。でも、この「生きがい」を見つけられたのはぼくの独力というわけではない。ぼくにとっての師と思える方との関わりを通して、そして友だちとのコミュニケーションを通してのことだ。その幸せにぼくは今感謝の念を抱き、今日も英語を学ぶ。ああ、これが人生の醍醐味なのか。

もちろん、冷笑的に考えれば「今さら勉強してどうするの」「いったいそんなことにうつつを抜かして何の意味があるの」と考えられるとも思う。「もう若くないでしょ?」と。それはもっともなことではあるのだけれど、でもならばぼくは世俗的な成功に目を向けずただ自分にとってしっくり来る努力をしたいと思う、と答える。「今さら」の勉強であれ、遅すぎる試みであるとはいえ、ぼくはぼくにとって満足行く生き方を貫きたい、と。そうしてぼくは哲学書を読んだり英語を鍛えたりして、与えられたこの人生やぼく自身の人格をより良いものにしていく。今日もぼくは英会話教室の宿題をこなした。外国語を学ぶ人々の努力について書き、ぼく自身がどうして英語を学ぶのかについても記した。もちろん(子どもじみたことを書くと)「人生、しょせん気晴らし」「人生に生きる価値はない」という考え方もある。だとしても、ぼくは学ぶことを止めない。どうせやってもやらなくても無意味だというのであれば、思いっ切り語学学習に湯水の如く時間を費やして豪快に生きていくのも(薦められた生き方ではないにせよ)人生なのだと思う。