昨日読んだ施光恒『英語化は愚民化』についてなのだけれど、WhatsAppでこのことで友だちと話をする機会があった。海外の地を踏んだことがないぼくとは違い彼の海外に関する知識はいつもぼくを唸らせる。彼曰く、日本は英語圏とは端的に離れたところにありそれゆえに日本語ネイティブにとって英語はマスターするのがもともと難しいものなのらしい(逆もまた真なりで、英語ネイティブにとって日本語は実に難解な言語だという)。そして日本に住んでいると、日本語を使えれば何でも事足りてしまうので英語を無理に学ぶメリットがないと彼は指摘した。これはぼくも同意する。ぼくはこの国、というか少なくともこの町のオフラインの日常生活で英語を使う機会は皆無と言っていい。コンビニでの買い物も病院の通院も、重要な書類を書くことも読書することもぼくは生まれ育った過程で習った日本語でこなしてしまっているのが実態だ。だからそんなぼくにとって英語はある種お酒のような「ぜいたく品」なのかもしれない。自分のキャリアに箔をつけるため、あるいは日々の生活にうるおいを与えるため、といったような感じで。少なくとも、ぼくの率直な実感を言えば少なくとも「言語が通じずに困った経験」はぼくの人生において、まったくと言っていいほどなかった。
だが、そうなってくるとむしろ「にも関わらず」この国を覆う「英語ペラペラ」へのプレッシャーが説明できなくなってくる。これは『英語化は愚民化』をベースにしたぼくの「想像」「思いつき」になるだけれど、日本は島国だから間接的に欧米に触れるしかなくそこから「自分たちは外部と隔絶している」という飢餓感が生まれるのではないかと思った(俗に言う「島国根性」というやつだ)。それは一方では「日本スゴイ」式の「ガラパゴス」な自尊感情を生むが、もう一方では過度に「日本はダメだ」という自虐を生むのではないか……そこにこのグローバル化/ネオリベラリズムの現象が拍車をかけ、「このままではいけない」「国際的に通用する人間にならないと」というプレッシャーへと変化する。「国境を越境して、異なる他者とコミュニケートできるようにならないと」「世界にガツンと『自分の意見』を言える人材にならないと」、と……繰り返すが、これはぼくの想像でしかない(なので『異論』を歓迎したい)。だが、だとしたらぼくたちにほんとうに必要なのはいったい何だろう。英語の実力も確かに大事だが、もっと大事なものもあるのではないかと思う。でもそれが何なのかまだぼくにはわからない。
今日は休みだった。朝10時、市内のとある施設に行きそこで行われる日本語教室を見学する。思っていたより参加しておられた人数は少なかったのだけれど、みんな熱心に日本語を勉強しておられてぼくは余計なことを訊くのもためらわれたので(「余計な茶々を入れる」「邪魔する」ことになるとも思ったので)、静かに先生たちや生徒たちが学ぶ現場を見させてもらった。そして、月並みな言葉になってしまうけれど改めてこうした「学び」の情熱の尊さに触れたようにも思ったのだった。ぼく自身は先述したように実にのんきに「ぜいたく品」として英語を学んでいる身なのだけれど、でもそんなのんきな学びであるとしても学びは学びである。英語学習や英語での実地のコミュニケーションを通して、ぼくは語学のスキルやもっと言えばぼく自身の人格・人間性をバージョンアップさせていると思っている(ただ、もちろんそれは「錯覚」でもありうるので気をつけないといけない)。話が脱線したが、そんなぼくにとってこの教室で触れた情熱・熱意は実に貴重なものだった。こうした機会を作って下さった教室の方に改めてありがたく思う。
「今何を読んでいるの?」と訊かれることがあるのだけれど、今はぼくはまた片岡義男『日本語の外へ』を読み返している。彼が、彼自身がかつて目撃した「日本人が喋る英語」について触れた下りが印象的だ。そこにいたのは日本語をそのまま英語に機械的に置き換えたような、つまり英語のシステムに染まることなく、ゆえに日本語の居心地の良さの中に安住した話し手の姿だった……と書いてしまったが、さて「このぼくの英語」はどうだろうかと考えると不安になる。ぼくだって日々「日本語の居心地の良さの中」でぬくぬくと生きていることはまぎれもない事実である。英語を話すことでそこから抜け出して「英語のリアル」を感じているというか、英語のシステムの中で自分を「解体」し「再構築」していると言えるのか……何だか仰々しい表現になってしまったが、でも(ポストモダンな現代思想が十八番とした発想になるが)ぼくは、そうして「外部」「他者」と触れ合う「探究」の試みとして英語を使いたいと思ってしまう。こんな悠長なことはまさにこの国の「平和ボケ」した雰囲気に染まってしまっているから言えるのかもしれないにしても。