跳舞猫日録

Life goes on brah!

2024/03/20 BGM: Phil Collins - Both Sides of the Story

今日は遅番だった。今朝、イオンでグレゴリー・ケズナジャットが記した面白いエッセイを読んだ。彼はアメリカ出身のネイティブの英語話者だが、現在彼は日本語を選んで小説執筆を続けておられる(ぼくは『鴨川ランナー』『開墾地』を読んだことがあるが、どちらも印象深いものだった)。このエッセイでは彼が区役所に行った時の面白いエピソードが語られている。その区役所で、彼は役所の人間に英語で話しかけられたのだそうだ。彼自身は日本語を話し、かつ英語を使ってほしいと頼んだわけでもないのにである。ひとえにそれは彼が「ガイジン」に見えたからだろう。

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実はぼくはこう見えてもふだんはデパートの一従業員として働いているのだけれど、ときおり異なった肌の色・髪の色を持つ外国人のお客様にお会いすることがある。ただぼくは、そうした場であっても前もって英語で話しかけることはかたく自らに禁じている。というのは、お察しのとおり、彼らの外見だけで彼らが英語話者かどうか、英語を使う方たちなのか見極めることはほとんど不可能だからだ(もしかしたら見かけが外国人っぽいだけで実は日本で生まれ育ってペラペラの日本語を話す人たちだ、なんてことも充分考えられる)。だから、彼らに対して問答無用で英語で話しかけることは彼らを「ガイジン」として扱ってしまったということになりうる。ニーズを汲み取ってから言葉を選ぶことが合理的なのだとぼくは信じる。

昨今、Xにおいて車椅子ユーザーをめぐるさまざまな議論(というか「戦争」)を目にする。どうやって彼らをケアし、助ければいいのか(公共施設、たとえば映画館や美術館といったところで)。そして助けてもらった場合、どうやって感謝の念を示すべきか(過度に示すべきではないのか)。実に繊細で難しい話題だ。しかしぼくは思う。ありうるソリューション(解決手段)としてはまずその困っている人たちにどんな助けが必要なのか実際に訊くことだ。その勇気を持ち、相手の意見を確認する手間を惜しむべきではないのだろう。もちろんこれはぼく自身に対して自戒を込めて言っている。

ぼくは発達障害者であり、ゆえに他者からの最低限の助け・ケアを求める人間である。でも、上に書いたロジックをなぞればぼくはどんなケアが必要なのか他者に説明・弁明する手間を惜しむべきではない。はっきりと上品に伝えるべきなのだ、と。それこそが「開かれた」会話・ダイアローグというものなのだと思う。もちろんこれはバカバカしいミス・失敗を覚悟しないといけない。それによって傷ついたり心証を害したりすることもあるだろう。でも、ぼくはねばり強くなり、あきらめないタフさを身につける必要もある。

ああ、今日はそのグレゴリー・ケズナジャットの文章からまた1ついいレッスンを学んだ。ミスを犯すことを恐れず、勇気を以て他者と対峙すること。そうすることが偉大な、「グローバルな」人間になる一歩なのかなとも思ったのだった。