跳舞猫日録

Life goes on brah!

2024/03/21 BGM: Blur - Lonesome Street

今日は休日だった。朝、恒例のZoomでの英会話のミーティングを楽しむ。でもそこにおいてそれぞれのメンバーが自己紹介を行う時に、ぼくは自分が発達障害者であることを明かした。すると他のメンバーたちが、話題として設定されていたのはジョージ・マイケルだったのだけれど(イギリスにおいて彼がコインの肖像として使われたとか、あるいはこれから使われるとかいう話だった)、その話よりもその発達障害の話の方が盛り上がり始めてしまった。なのでぼくも発達障害(あるいは自閉症)について、「いや、これは脳の特徴を表す言葉で……」と話し始めることになったのだった。

実を言うとこうした場でのこんな感じでの自己紹介の際に発達障害について話すとき、ぼくは「いつも」ためらい葛藤を覚える。発達障害者であることを「告白」「告解」すべきか否か。ぼくにとって、この事実はそんなに深刻なことだとも「地雷」めいたことだとも思わない。言い換えれば、話さなくてもいいことかなと思うことだってある。血液型や趣味・嗜好と同じだ。つまり「自己紹介します! ぼくはタツロウ。デパートで働いています。発達障害者で村上春樹を尊敬していて、ブラーの音楽を好んで聴きます」といった感じだ。

今朝の会話は発達障害がどういうものかについて言及しつつ進んだ。ある参加された方がおっしゃったことが印象深い。「でも、あなたは英語での会話が達者だしとても『ソーシャライズ』されている(この言葉、どう訳せばいいのかわからないけどやけっぱちで置き換えれば『社会性がある』となるか。でも、ひきこもりやニートだって『社会の一員』とぼくは思っている)」とおっしゃったのだった。このことが嬉しく思われ、また「これは相互理解の第一歩になる、面白い会話だな」と思ったのだった。皮肉・冷笑ではなくぼく自身が発達障害者として、ぼくの方こそこの世界に向き合うために自分を晒して歩み寄る必要があると思ったからだ。

その後、図書館に行き昨日この日記でも書いたグレゴリー・ケズナジャットのデビュー作『鴨川ランナー』を借りる。読みながら、これが実にすばらしい甘辛い(ほろ苦い)デビュー作であるとあらためて唸った。この小説の中で、作中の話者(主人公。日本文化・文学を日本で学ぶために訪日した)は自らの葛藤・奮闘を開陳する。でも話者たる彼は鋭い自己省察のセンスを備えており、内面の変化がどうもたらされどう動くかつぶさに見極めようとしている。それが端正な文体で記される。だから、これは「グローバル化バンザイ」でもなければ「日本スゴイ」でもない。その「あいだ」を、サイード言うところの「オリエンタリズム」に陥らず上品・繊細にくぐっていく。いや、これは面白い青春小説だ。なぜかジェイ・マキナニー『ブライト・ライツ、ビッグ・シティ』を連想した。

夜になり、毎週恒例のZoomでのミーティングに参加する。今回の話題は姫路マラソンについて。ボランティア参加された方の貴重な体験談をシェアした。でも、そもそも「なぜランナーはそんな苦しい思いをしてまで『走る』のか」なんてことを考えてしまっているのがぼくのトホホなところなのだった。いや、村上春樹のエッセイで走ることの意義は学んだつもりなのだけれど、まだ好奇心が芽吹くのを待つ「種」として残っているのだった。