「日本語が消滅する」という事態が起こりうるとしたら(そしてその傾向を示す現象は「確実に」起こっている)。著者の山口仲美はその理由について、世界的に実際に消えた言語の例を引きつつ多様な可能性を示唆する。自然災害や大量虐殺によって。同化政策によって。もしくは、いちばんありえそうな可能性として日本人が自発的に・完全に日本語から別の言語に乗り換えるという選択をしてしまうことによって(日本で英語が公用語となってしまう、など)。確かに英語はいまだにグローバルに世界をつなぎうる言葉ではあるけれど、山口はぼくたちが日本語を使って思考を育み日本の伝統を受け継いできたことに関して肯定的な面を多彩に評価することを試みる。ぼくが理解できたところだけを取り急ぎ手短に拾って書いてみるなら、一貫性のある母語が存在することはそもそも精神の安定につながる(「言葉で自分を支えられ、誰かに思いを伝えられる」ということが人間にとっていかに大事か、という話だ。言葉がまったく通じない国に投げ込まれたら混乱してしまうのは想像に難くない)。また、アイデンティティ(自分自身)の形成・育成にもつながる。そう考えていくと日本語で「読み書き」ができることは幸せなことなのだなと思える。
さまざまなことを考えさせられる。この本ではフォローできていないことがらだけど、一部の日本人がそうした貴重な日本語というリソースを捨ててまで英語に我先にと溶け込もうとするのは根強く残る「国際派」「グローバリズム」に対する幻想があるからではないかとも思ってしまう。裏返せばそうした一部の日本人は「日本人であるということ」そのものに劣等感を抱き、まったく自信喪失しているからではないかと……ぼくはナショナリズムがただちに素晴らしいとは思わない(同時に絶対悪だとも思わない)。でも他者(とりわけ「異文化に属する」「異質な」人びと)に対して排他的にならないで、それでいて「ふるさと」たる日本の文化に矜持・誇りを持つことは不可能ではないはずだと思ってしまう。だが、これは楽天的すぎる見方かもしれない。過去にぼくが読んできた水村美苗『日本語が亡びるとき』や施光恒『英語化は愚民化』といった本を思い出し、いま一度ぼくにとってこの思考システムを形成している日本語を(再)評価することは大事なことと思った。そして、そうした自分のバックグラウンドを肯定しつつ他者をも肯定・歓待する姿勢から英語を学ぶのが大事なのかな、と。いや、これもまたあまりにも楽天的な意見なのかもしれないけれど。異論を待ちたい。
夜、ZOOMを立ち上げて毎週木曜のミーティングに参加する。今回はグラフィックレコーディング(略してグラレコ)の描き方を教わる。毎回この木曜のミーティングではさまざまなことを学ばせてもらっているけれど、今回もぼくならぼくが何かを記録する際に遊び心を盛り込んだイラストレーションを交えること(つまり、自分なりに「色」「味」をつけて書き込みを行うこと)の醍醐味を学ぶこととなった。イラストを描くという作業、具体的には丸を描いてその中に目や口を描き込むこと1つ取ってもさまざまなやり方がある。これはぼくは、ぼくにとっての外国語である英語を使うことと共通点があるのではないかと思った。単純に考えること、そして簡素に表現することを目指すのが大事である。その中にこそ奥深さが出てくる……ぼくは絵心がまったくないのでグラレコに関しても自分と無縁と思っていたが、いつもつけている英語メモか何かにこんなイラストを盛り込むのもいいのかなと思えてきた。その後Discordでチャットを楽しみ、そして「なぜ自殺してはいけないのか」に関する濃い議論に参加したりしているうちに就寝時間になってしまった。ああ、そんなわけでノーベル文学賞の話題については書けない。ごめんなさい!