跳舞猫日録

Life goes on brah!

2024/05/28 BGM: Sting - If I Ever Lose My Faith In You

きょうは激しい雨が降った。今朝の仕事中に、ぼくは自分が40になって断酒に踏み切ってからどうしてこんなふうに英語を真剣にあるいは真面目に学ぼうとし始めたのか考えた。今年でぼくは49になるのだけれど、若かった頃はぼくはこの年齢について成熟した人格(パーソナリティ)を象徴するもの、あるいは平静な精神状態を示すものと考えていた。まさに「不惑」。だけどこの日記でも書きつけてきたとおり、いまだにぼくはいつだって自分の精神・心がささいでうっとうしいことがら(生きていたらせわしなく・終わることなく起こり来るトラブルの数々)に揺さぶられていることを思い知る。

30代のある時期、雑誌でこんなコラムを読んだことを思い出す(いや、森永博志の著書だったかもしれない)。それはカリスマ的ロックスターのスティングの人生を語ったもので、彼は過去に教師の職に就いていたそうだ。だが、ある日彼は「10年後」の彼自身の人生を想像してみたのだという。するとそこに彼が見出したのは、彼にとって退屈だったその教師としての職を相変わらず続けている未来だった。だから、そんなキャリアに見切りをつけてミュージシャンとしての道を歩むことを決心したのだった。コラムはそんなことをつづっていた(いや、正確な参照ではないかもしれない。なにせ10年も前に読んだので……でも、こんなふうにぼくには読めた)。ぼくも同じように「10年後」をイメージして、そしてなにも見い出せないことに愕然としたのを思い出す。

40になり、その歳に断酒会の門を叩きシラフの心で生き直すことにした。大学時代からしばらく、実に長くつづいたブランクのあとぼくはまた英語をほとんどゼロからぼくなりに、つとめて虚心に学び直すことを決めた。はじめはこれでも大学で英文学を学んだという実績があったにせよ、ぜんぜんなんにもスムーズに流暢に話せたり書けたりできるものではなく困ったことを思い出す。でも徐々に、友だちがぼくの英語を褒めてくれるようになった。そしていまではぼく自身、英語を使うことにたしかな「生きる歓び」(というのは保坂和志の小説のタイトルだが)を感じられるようになった。「10年前」のこと、そしてそれから「10年後」のいま。たしかにいろんなことが確実に、疑いようもなく変わり続けているのを感じる。時代は変わる。

もしいまの友だちとあの日、あの古民家カフェで出会っていなかったらどうなっていただろうか。もしくは別のある日、友だちに勇気を出してぼくの英語を見せることがなかったら。ぼくが書いた英語を見て、その友だちが「あなたの英語はクールだ」「わかりやすい」と言ってくれたこと……その言葉はいまだにぼくの中で生きている。だからこそぼくは英語を小さなミッションとして学び続けられているのだろう。日本語で言えば「使命」ということになろうか。過去、酔いどれを気取っていた頃、ぼくは「人生なんて意味はない」「こんな時代に生まれてきたことを悔いる」「自分は敗残者だ」信じ込んでいた(あるいは信じよう信じようと腐心していたのかもしれない……意固地になっていたというか)。いま、英語を学ぶこと自体がぼくにとってそうした「使命」でありうるのかなとは思えるようになってきた。そして、この町と世界をつなぐ「橋」になれたらなあ、とも思い始められるようになってきた。