そんなにも長い時間を、ぼくたち日本人は英語を学ぶことに費やす。だが、成就するのは実に至難の業。では、そんな不可能な試みでありうる英語学習をどうしてぼくはまた続けるのか。英語がペラペラであることが単にカッコいいからという理由でからなのか。あるいは世界市民(コスモポリタンと呼ばれる「世界に通用するグローバル人材」)になりたいからなのか。わからないけれど、いまはぼくはそんなアホくさいというか小賢しい戦略に振り回されず英語を使おうと思っている。
この本は興味深い意見・アイデアを提示している。英語がペラペラに話せる能力(語学力)は人の価値そのものまで決めたりしない、というシンプルにして侵しがたい真実だ。ああ、過去にアホな考えを持ち続けていたこと、囚われ続けていたことを思い出す。その昔、ぼくは普通の人よりも英語がペラペラな人は端的にすぐれているものだと決めつけてしまっていたのだった。人格においてさえも上ではないか、ステージが違うのではないか、とか。ああ、バカげた考えだった。誰もがその人らしくあることがそのまますばらしい、という基礎に返りたい。
振り返ってみて、そして思い出す。このすばらしいインターネット時代以前、ぼくは日本人(概してモノリンガルな人たち)はそれゆえに劣っているとまで思っていた。だから海外の人々に追いつき追い越す勢いで英語を学ぶべきなのだ、と。でも、いまはさすがにそんな極端なことは考えない。多様性の時代、バラエティな世界が到来した。そして、ぼくはこの自分を等身大の日本人として差し出せないか、と思い始められるようにもなった。頑固なバイアス(偏見・思い込み)から逃げられたのだろうか。
思い出す……ある友だちが今朝、ぼくの英語について「ほぼ(『ほぼ』だけど)C2だ」と行ってくれたのだった。どれだけすごいのかわからなかった……いまも実はピンと来ていない。もちろん、そう言われたことは面映ゆいことでありありがたいとしか言いようがない。でも、過去ぼくの英語はほんとうにひどかったのでそう言われたことが端的に信じられないことだとも思ってしまう。いまだって発音は実に日本人なまりがこびりついたものだ。もっと、確かに信念を燃やして学んでいきたいとも思う。それこそ過去に日本人たちが英語を学び、見果てぬ「ペラペラ」を目指したようにだ。今日読んだ江利川春雄の本が語っているように(ちくま新書から出ているお買い得な本なので、ぜひともお薦めします!)。