跳舞猫日録

Life goes on brah!

2024/02/16 BGM: Blur - Popscene

最近になって、こんなことを考え始めた――みんなどうやってタスクやスケジュールを管理すべくメモを使いこなしているのだろう? この日記でちょくちょく書いてきたのだけれど、ぼくの場合はいつも「ニーモシネ」というメモパッドを使っていろんなアイデアを断片的に書き留めている。ぼくの英語学習仲間のSlang-Eaterさんが、日記帳を買ったらどうですかと言ってくださった。調べたところ、面白そうな「バレットジャーナル」というものを知った。もっと掘り下げてググってみる必要があるようだ。

実を言うと、ぼくは内向的な人間で頭の中はつねにしっちゃかめっちゃかで、もっと言うとエッチな俗物でもある(書いてて悲しくなってきた。でも書かずにはいられないのも悲しい)。だから1つのことを情熱を以て堅実に続けられない性分なのである(いつもたくさんの本をあれこれ一挙に読もうとして、「二兎を追う者は一兎をも得ず」を地で行く無惨な失態を見せてしまう)。でも、ぼく自身にとってさえも実におかしな話であるのだけれど、この日記は2年ぐらい続いているようでそれは実際に・常にぼくにとって心のトリートメント(治療行為)であり続けている。そんなこともあるのだろう。

今朝、ぼくは満を持して(?)読み続けていた江利川春雄『英語教育論争史』を読み終えた。この本は古代の人々、いにしえの知識人たちがどう英語教育を国家の威信を賭けたものとして(大げさかな)とらえ、効果的に学ぶべきか論争を繰り広げてきた歴史を綴ったものである。ご存知のとおり、英語は日本の公用語ではなくまったくもって異なる言葉である(江利川春雄は、英語をマスターするのは相当に困難を極める「super difficult」なことなのだとまで言う)。過去、たくさんの人たちがどう効果的に英語を学びうるかを論じてきたのだった(人によっては「時間がかかるばかりで益がないから公教育としては英語は廃止してもいいのでは」と主張した人までいるようだ)。

読みながら、どう英語を学ぶべきかいま一度考える必要があると思った。今年ぼくは49になる(ついでに言えば、国民作家にして伝説の文人夏目漱石が逝った年齢である。ああ!)。単純に言って。もう若くもないので学校教育の堅苦しい義務からは完全に解放された身分である。純然たる楽しみのために語学を学べる。ときおり、まあ「酔いどれていた頃に戻って英語をやり直せたらもっと伸びていたのかなあ」と思わなくもないけれど、そういうことを言い出せばきりがないのでいまからでも山を登って頂上に近づけたらなあと思い始めている。

今日は仕事だった。ジョブコーチと面談日の面談を済ませる。でも、もうこれについて書くスペースがない。もっと計画的に、ノートを買うかなんかしてさっきも書いたようなプランを立てる必要があるのかも知れない。「滅茶苦茶でごじゃりまするがな」って言葉を思い出した……。