跳舞猫日録

Life goes on brah!

2024/11/16 BGM: David Holmes - Radio 7

概要・詳細を明かすことは慎むが、いまこれを書いている現在ぼくの中にはたしかに怒りの感情が充満していて、そのせいで文字通り頭がおかしくなりそうになっているのを感じる。書けるところだけを書くならそれはもっぱら職場で起きていることが原因で、いっこうに改善の気配もなくどうぼく自身があがいても我慢がならない。今日は早番で、ともかくもそんな感じで午前の仕事を終えた後に昼休みになりぼくはふと過去のことを思い出してしまった。とりわけ人生においてそれこそ「どん底」「底つき」を味わったとはっきり自覚したころのことを……。

それは前の部署にいたころのこと、2011年のころだったと思う。その時期、まだ元ジョブコーチとお会いする前、なんとかして発達障害の診断を独力で医師と掛け合って得られるところまでこぎつけたぼくはそこから医師の意見書をもらえないか、それを上司に見せられないかと悪戦苦闘した。だが、上司はその必要はないと突っぱねた(だがこのことについてその上司を責めるのは酷だろうと思う。いや、会社に気を遣うつもりはない。ぼく自身でさえまだ発達障害のことを完全に理解できておらず、それゆえに「なんだかわけのわからない障害」としか説明できなかったのだ)。そんなこんなで職場ではすっかりお荷物として扱われ、誰にも味方になってもらえず結局ぼくは「あきらめる」ことにした。文字どおりなにもかも「あきらめて」……そして、これについても詳細は自粛するが結局医師が就労不可の診断を書くところまで追い詰められてしまった。

思いあまってある方にLINEで相談(というかもう愚痴)のメッセージを送ってしまい、するとその方からすぐさま返信が届いた。そこで、興味深い記事をシェアしてもらった。どのようにして職場における同僚の方々とぼくの間の「関係性」を見直し調節していくべきかといったことが骨子だった。相手をなんとかして変えよう(ぼくの語彙で言えば「服従させよう」「従わせよう」)とするのではなく、自分自身を変えて適応させようとするのでもなく、どう自分の中の性格を見つめ直して相手に合わせつつ状況にねばり強く・根気よく訴えかけていくべきか。関係にフォーカスを当てていくこと……というのがぼくの理解だ。いったい自分の中でどんなわだかまる思いがあって同僚の方に(とりわけ、仕事中なのに15分も20分も私語を飽きもせず続けてぼくを働かせ放題にさせる人に)怒りを持ってしまうのか。いや、それはもちろん正論だと思った。が、呑み込むことはできても不公平感は禁じ得ない。正直「このブスとっとと死ね」とまで思ったことを告白しておく(こんなことを明記することにどんなリスクがあるか、ぼくなりにわかった上で恥を忍んで公開する)。

言い方を変えるならその方が常に、それこそ四六時中ぼくの味方として時には諫言も込めてアドバイスをくださったこと、そばにいて苦しい時も見守ってくださったことをぼくは知っている。裏切りたいとは露ほども思わない。だが、感情がすっきりしないというかあるいは上に書いたような子どもじみた性格のせいか、そんな「正しすぎる正論」が逆に耳に入らず受け入れられない。いまも釈然としない。結局呪詛をくすぶらせつつ仕事をしてしまった。キレてもいいことなんてなにもないので(いままで職場・私生活を問わずキレたことは山ほどあるが、キレていい目にあったことは1度もなかった)、感情を文字どおり殺してマシンになったつもりで仕事をした。

仕事が終わったあと夕食を摂りそしてゆっくりひと息ついて、そのままうたた寝してしまう。プレゼンテーションのための草稿を書きたいと思ったりしていたものの、なにもできず文字どおり惰眠をむさぼる結果となってしまった。職場でキレて叫ぶか物に当たるか、それこそ「このブス死ね」と怒鳴りつけるかして怒りを晒すべきだったのか、とふたたび考え込んでしまい……結局なにもしなかった自分は、これもまたこんな時代において実に「物議を醸す」「無神経な」物言いになるが結局は「泣き虫」「弱虫」であってもっと言えばヘタレでもあって、成熟した「オトナ」を気取っていても結局不条理を前に行動に移せない・なにも変えられないヘナチョコな人間でしかないのか。いや、真面目に考えている。さすがに「ブス」「死ね」はないことも自分にあらためて言い聞かせたい。まったくもって間違っている(あらためて我が未熟を恥じる。申し訳ありません)。

感情的になりすぎて、自分を見失ったことならこれまでの人生山ほどある。そのたびに、このやっかいな感情がなければ(機械のようになれれば)どれだけ生きやすいだろうかと思ったりもしたものだった。ああ。とりあえずこのことはグループホームの管理者・副管理者の方々に相談しようと思った。