跳舞猫日録

Life goes on brah!

2023/05/22 BGM: Blur - Girls & Boys

今日は遅番だった。朝、6月から開かれる市の英会話教室に参加申し込みを行う。思えばこの英会話教室に通うようになってずいぶん経つ。今回は誰が教師なのだろう。市で英語を教えるネイティブのALTの先生方が教師を担当されるのだけれど、その先生方だってそうした本業の仕事をこなしつつこうした授業をされるのだからほんとうにお忙しいはずで、それを思うと実に「ありがたい」と思う。この英会話教室で私はいろんなことを学び、獲得してきた。英語の知識やスキルはもちろんのこと、そこで出会った方々とつながることができて自分の世界が広がってきたのを実感できる。独りぼっちで学んでいたらそうした世界というか自分自身のネットワークの広がりは体感できなかっただろう。私はそんなに「大人(たいじん)」ではないので「井の中の蛙」になってしまっていたかもしれない。教室でステキな方々と知り合えて、この町にも実に「クール」というか「粋(イキ)」な人たちがいると実感できた。さて、今度はどんな方が参加されるのだろう。

DiscordやMeWeの英会話コミュニティ/グループで英語で文章を投稿したり、英語でチャットをしたりして私は英語を使い続けている。時折「なんで英語を学ぶの?」と訊かれることがあるのだけれど、いつもいつも書いていることだけれど私はそんな大した立派な理由や動機があるわけではない。強いて言えば「友だち作り」が主なモチベーションとしか言いようがない。仕事でステップアップというわけでもないので(もし仕事で昇進を考えるのなら、私はむしろ「ビジネス日本語」をこそ学ぶかもしれない)……その意味では純然たる「趣味」「気散じ」なのだった。気楽なものである。言い方を変えれば、そうした英会話教室ではそんなノーテンキな私がついに別の動機、まったくもってシリアスな動機から学ぶ人たちと出会える場でもあるので、刺激をもらえる場でもある。ともに学ぶこと、ともに成長することの喜びを噛みしめることができる場と表現できるだろうか。学ぶことはすばらしいことだ、と改めて思う。

「ミッドライフ・クライシス(中年の危機)」なのだろうか? こないだのアンディ・ルーク(元ザ・スミス)の死のニュースが引っかかっている。自分もいずれ死ぬ……今年で48になるというその事実が重くのしかかる。何を成し遂げただろうかと思い、ことによると「ぜんぜん」かもしれないとも思ってしまった。ああ、何たる人生だ。でも、上に書いたような経緯を経て英語を学び続けてきたそのスキルや知識が自分の中に蓄積されていることも明瞭な事実だとも言える。過去に自己嫌悪からずいぶん自傷行為としての飲酒に耽っていた頃、やることなすこと自分の行為が気に入らなかったことを思い出せる。あの頃書いた小説もエッセイも捨ててしまったっけ。今、自分は自分が書いたもの、自分がこうして自分の中に蓄積してきたものを(もちろん他人からすれば「なんぼのもん」なのかなとも思うのだけれど)、誇れる。おずおずとではあるけれども差し出せる。それが「前に進めた」「成長した」ということなのかなあ、といつもの自画自賛に浸ってしまった。

私が十代の頃、ザ・スミスはすでに「伝説」のグループに属していたように映る。1990年頃のことだろうか(彼らは1987年に解散している)。彼らの陰鬱で美しい曲に触れて、ずいぶん慰められたことを思い出した。そう考えていくと自分にとってロック・ミュージックを聞くということは単なる気晴らしとしてだけではなく、そこから「学ぶ」というか「人間成長」を試みる過程でもあったのかなと思う。『ロッキング・オン』をバイブルとして持ち歩き、批評家の熱が入った文章を読み込むことで文学や哲学の肥沃な「沼」に入っていったものだ。私はいちいち大げさでアホな人間なので、とことん「ポジティブに生きるのが幸せと言えるのだろうか」なんて大上段に構えて「リキんで」過ごしたっけ。でも、そうしてあれこれ考え込んで生きた日々は今でも自分の中で財産となっていると実感できる。人はいつか死ぬ。だがその人生の過程でその人たちが築き上げてきたことは人に確実に影響を及ぼす。それがこの世に生きるという意味なのだろう。三木清が『人生論ノート』で「幸福は表現的なものである。鳥の歌うが如くおのずから外に現われて他の人を幸福にするものが真の幸福である」と書いたのはそういう意味なのだろうと思う。