今日は休みだった。朝、天気もよかったので私は再び最上山に行った。clubhouseで久々にジュディスさんがルームを開かれていた。「生涯学習」について話されていて、そのトークからいろいろ考える。人生は100年時代に達しようとしている、と物の本で語られているのを読んだことがある。その長い人生において、自分自身を適切にどう育てるか、何をどう学ぶかが私たちに委ねられている……私は自分の「生涯学習」として、こうしてソーシャル・メディアなどを通して英語を学び続ける。明日木曜日のミーティングでも語るつもりなのだけれど、英語を学ぶことは私にとって必ずしも「いい仕事に就く」とか「おいしい人生を生きる」というためのものではない。もちろんそういう目的で英語を学ぶことはまったくもって健全なことなのだけど、私の場合はもっと端的な事実としてこの弱っちい自分自身が英語学習で「癒やされて」いること、言葉が通じる小さな成功体験を積み重ねることで自信をつけていることが大きい。つまり、実に「内から来る」動機で学び続けているのだった。
最上山でブライアン・イーノを聴きながら、そこで広がっている緑の豊かさに改めて息を呑む思いをする。ああ、なんと豊かな世界だろう。川こそ流れていないものの、アーネスト・ヘミングウェイの短編小説の主人公のように私はその自然の中で自分自身と静かに語らう。そのようにして「生涯学習」について考えているうちに、私は自分の中から確かな「欲」が出てきているのを感じる。それは端的に「もっと生きていたい」と欲張る心とでも言うべきものだ。おかしなものだ。酒に溺れていた時は「いつでも自分は死ねる」と腹をくくって生きていたつもりだった。だが、今は「まだ生きたい」と思っている。生きて、これからだってどんどん学んでいきたい。こんな欲が出てくることを実に「驚異」に思う。断酒しなければこの世界がこんなにも美しいことも、自分の中にこんなにも欲深さが眠っているということもわからなかったわけだ。その欲はしかし、私は決して悪いものだとは思わない。また自己愛を丸出しにしてしまうが、そうした欲や好奇心こそ自分が学び続ける礎なのだと思う。
山で撮れた写真をDiscordやMeWe、Facebookでシェアする。友だちがそれを見て「いいね」をくれる……まったく、このリアルワールドというやつはなんと気まぐれというか、矛盾に満ちたところなのだろうか。過去に私は紛れもなく全クラスメイトに蛇蝎のごとく嫌われたというのに、今は私がそのようにして(ある意味、オードリー・タン的オープンマインドを見習って)さまざまなコンテンツをシェアすると友だちは喜んでくれる。私の知らないところでこの世界のOSがまるごと変化したのだろうか。知らない間に、いつの間にかこの世界はこの私のような自閉症スペクトラムの人間を理解しようと務める優しさを持ち始めていることに気づく。この私は何ひとつ、まったく変わっていないというのに! そして、リアルで会った方なら誰もが合意すると思うがこの私は結局はただの弱っちい本の虫でありミュージック・ジャンキーであり、根っからエッチな、芥川龍之介に倣って言えば「侏儒」「或阿呆」でしかないというのに……。
昼、暇を持て余してイオンに行く。そこで國分功一郎の新刊『目的への抵抗』を買う。たまたま、前に英会話教室でお会いした方とばったり会う。その方からこの日記を読んでいる旨を教わる。しかも実にじっくりと読まれていることを教わってしまう。もちろん非常にありがたいことだ。月曜日の西光寺でのミーティングでもずいぶんこの日記を絶賛されたっけ。なんということか。私はただ私から映る、私が生きている真実を書いているにすぎない。語弊がある言い方をするが、読者にどうウケるかまでは考えていない。ああ、だというのに読者はこの日記を読んで下さっている。この日記はそのようにして私とさまざまな方との距離を確実に縮めてくれている。これが奇跡でなくてなんだというのだろう。今日、まさに「これが人生最良の瞬間」なのかなとさえ思う。そして、幸せとはこんな風なシンプルでクリアなものなのだなと思う。私はいつの間にか幸せであふれる世界の中に生きていた、とさえ言えるのかもしれない。宍粟市の自然、豊かな人とのつながり、などなど……ああ、この素晴らしき世界。