跳舞猫日録

Life goes on brah!

2023/05/23 BGM: Aztec Camera - Good Morning Britain

今日は早番だった。朝、LINEで友だちと作っているグループにメッセージを送った。中年の危機のこと、英会話教室にまた行くこと……すると友だちの1人が「ステキな話ですね」とメッセージを返して下さった。それを読み、私はふと「こうした『共感』こそがコミュニケーションの醍醐味なのではないか」と思ったのだった。さっそくそのことをLINEで書き込む。端的な事実/真理として、私は1人では生きられない。もちろん、人と完全にわかりあえることを求めると苦しくなるのがオチではある。完全な相互理解なんてことは幻想に過ぎない。だけど、「だからこそ」私たちは相手を理解する試みを諦めてはいけないし、そうして相手への歩み寄りを行うことで相手を癒したり相手の立場から物事を捉えられたりできるようになるというのも大事なことだとも思ったのだ。ことに今は「分断」から生じる、自分の立場からしか真実が何か見極められない時代である(ということを、恐らく「ポスト・トゥルース」と呼ぶのだろうと私は解釈している)。「共感」はその意味で大事な概念だと思う。また1つ学んだと思った。

英会話教室に通うことをDiscordで書き……すると「カッコいい」「うらやましい」と言われてしまった。そうなのだろうか、と思う。私は過去にずっといじめられてきたので人から褒められると未だにおしりがムズムズしてしまうのだけど……でも冷静に過去を振り返ってみると確かにこの私自身も人を見て「英語がペラペラってうらやましい」「私は田舎者で日本語しかしゃべれない。世の中不公平だ」と思ったこともあったなと思ったのだった。そんな自分の経験を踏まえて語るなら、英語に関して言えば「少しずつ少しずつ」切り開いていくのが大事なのかなと思う。どうあがいたっていきなり英語が「ペラペラ」になれるわけがないのだから、日々修練/鍛錬を積み重ねて学んでいくこと、実地で英語をしゃべったり書いたりして身体で覚えていくことが大事なのかなと思うのだ。今はいい時代なのではないかと思う。例えば、LINEを開けばチャットグループとして英語学習者たちが集う英会話グループにアクセスすることができる。そこから英語を使うチャンスを掴める。

ただ、そうして私が「LINEでそうしたグループがありますよ」「ネットでそうした手段がありますよ」と書いてもやらない人はいるだろうなとも思う。そして、それは別段その人の怠慢だからというわけでもないのも確かなことだ。イヤミではない(そう受け取らないでいただければありがたい)。英語学習は学校教育の過程で行われることでもあるので、授業やテストで私たちは「壁」「限界」を意識せざるをえない。平たく言えば「あなたの英語はまだまだだ」「テストで満点を取れていないなら満足な習熟度とは言えない」と、学校教育の過程でそんなメッセージを受け取ることに慣れてしまうことによって「そうだ、自分の英語は不十分なんだ」と思い込んでしまうということだ。何を隠そう、私だってそんな無力感に苦しめられたのだった。自分に課せられた心理的な「枷」「重石」を自分で外して自分を解き放つことはほんとうに難しい。だがこれは「勇気を出して『破れかぶれで』やってみて下さい」「まずは『Hello』と話しかけるところから始めてはいかがですか」という話なのもまた事実なのだと思う。

英語を話せるようにトライするということは、大げさに言えば単なる「学習」「勉強」を超えた「自己改革」なのだと思う。もっと言えば、自分自身を一変させる「革命」「一世一代のバクチ」を起こすことでさえあると言える。そしてそれに怖気づくのは、まったくもって「臆病」「弱虫」なことではないと思う。だが、経験者であり一応(ほんとうに『一応』)先を歩いてここまで来ている私としては「レッツビギン!」としか言えない。英語を学ぶ過程で私は「しくじる時は堂々と」と思うようになった。ミスは誰だってする。こないだだって私はフードコートを「food coat」と書いてしまうというスットコドッコイなことになったりして……だが、そうして英語をともかくも使い続けていると自分自身が英語のシステムに慣れてくる。英語のルールがわかってくる。そうすると確かな変化が自分の中で生じる。私自身、そうした変化を楽しんできてここまでたどり着いた。まずは「Hello」「How are you doing?」から始めてみてはどうだろうか。そこから新しいことが生まれる可能性は充分にありうると信じる。