今朝はあわただしくも、いつも通りZoomでの英会話関係のミーティングに参加する。毎週日曜日はフリートークの週ということで実にざっくばらんな話を英語で楽しむ。まずそれぞれのメンバーが今日の予定を紹介し合い、そこから何人かの方がミートアップというアプリ(だろうか? よく知らないのだった)の話をされたのでその話題がはずむ。使っておられる方々の話によるとそのアプリ(?)を通してその方々は読書会や言語交換ミーティングなどを満喫しておられるということで(リアルのミーティングのみならずZoomなどでのミーティングにも対応していると聞く)、実に惹きつけられてしまったのでさっそくそのミーティングが終わったあとアプリをダウンロードしてインストールした(それはそうと、英会話の席で英語で話す段になってもぼくはついついアプリケーションを短縮した英単語「app」を「アプリ」と発音してしまう。これは厳密には……「アップ」? 「エァプ」? まあそんなふうに発音するのだとか。ただ、「アプリ」でも文脈で難なく通じるから問題ないよと言う人もおられたりする)。
仕事前に図書館に行き、そこでカレン・チャンという書き手の『わたしの香港』という書物をふたたび借りることにした。これは彼女が多感な時期を困難(もっと平たく言えば「生きづらさ」)とともに過ごした場所である香港というトポスについて、そして彼女自身の半生についてまとめた1冊だ。この本はきっと(絶対に、とさえ思う)この日記でもここさいきん書いている「ぼく自身の」回想録を書く手助け・ヒントをくれると信じている。昼食休憩の時間、メモパッドに英語でその回想録のためのメモをあれこれ書く。1つ書きたいことがあるとすれば、それは英語という言語がどうこの人生を生き抜く過程においてぼくをサポートしてくれたかという話題だ(もっと言ってしまえば、英語は文字どおりぼくを「救って」くれたとさえ思う。そんな英語学習に内在する可能性を見出すまでにはずいぶん「迂回」「まわり道」をせざるをえなかったとはいえ)。
思い出す……その昔(そう、いままさにその惨めったらしい・いまわしい日々を思い出している)トラウマに満ちたできごとのせいで自分に対してこれっぽっちも自信・自尊感情を持てず、それゆえに卑屈になって「生まれてきたこと自体がなにかの間違いだった」とさえ思って生きていたのだった。あの日、あの古民家カフェでいまの友だちとお会いするあの日以前のことを思うとあの当時はぼくはそれこそ「ゾンビ」「生ける屍」よろしくなんの希望も活力も持てず、ただ惰性で生きていたとさえ言える。あの日のことを(そんなに長々とは書けないにしても、せめてあの日1日だけのことでも)書けないだろうか。ぼくのいまの人生を構成するさまざまなことがらがはじまったあの日……あの日(なんのためらいもなく言えることだが)、ぼくは人生を自分の自由意志・決意をもってはじめられたのかなあ、と思う。あの日がはじまりだった。